思えば、あの痛みは警告だった。

近付いてはならない。『それ』は奥底にしまい込んでおかなくてはならない。封じられてなければならない。
何故なら『それ』は今の自分にとって不要なモノで。それどころか今の自分が持っていては、貫き通すと誓った武士の道の妨げにしかならないモノだから。
だから、決して近付いてはならなかった。

これは夢だと思った。だってこんなにも相手の顔に、もやがかかっていて、造作がぼやけて見えない。
そして、これは過去の想い出だとも思った。恐らく自分が近藤と出会ったあの日よりもずっと前。長い髪がさらさら肩に触れる感覚と、幼い自分の手足が見える。相手の少年に縋りつくように、彼の着物の端をぎゅっと握りしめている。
戦争に行くのだと、言われた。敵に対する怒りを燃え上がらせながらも澄んだ真っ直ぐな双眸で、言われた。途端に景色が歪んだ。よりいっそう彼の顔がぼやけた。
嗚呼そうか、俺は泣いていたのか。
どこか他人事のように理解した。いや、客観的に分析した、といった方が正しいか。そう、この視界が霞む原因は瞳に溜まった涙の膜だ。そして、ひとつだけ、主観的に分析できたことがある。それは『嫌だ』という感情。
嫌だ、嫌だ、この手を離せば彼は行ってしまう。置いてかれてしまう。嫌だ、嫌だ。お願いだから、せめて連れていってよ! 小さい頃からずっと一緒に遊んできたじゃないか。なんで今さら俺を置いてくの!?

そんなの嫌だ。
嫌だ、嫌だ、

「嫌だァ!」

自ら発した大声に目を覚ますと、眼前にはバズーカの砲口と虚を突かれた沖田の驚いた顔があった。

「…せっかく俺の念願が叶いそうだったのに。そんなに死ぬの嫌なんですかィ? 土方さんは」

「お前馬鹿じゃねェの……?」

しれっとした表情でそんなことを宣う外見だけ爽やかなサディスティック星の王子に、土方は上手い反論の言葉を探す気力もなく嘆息した。

沖田の言い分は少し間違っている。自分が『嫌だ』と拒絶したのは何も死ぬことに対してではない。そもそも命を狙われるのは――攘夷浪士からも部下からも――最早日常的過ぎて、今更『嫌だ』はないだろう。
拒絶したのは、夢の中の出来事についてなのだ。もっと言えば幼い日の自分が幼い日の出来事を、だ。今の土方が何かを拒絶したワケではない。
けれど、あんなことが、過去にあっただろうか? 家を飛び出してから、近藤と会う前までの喧嘩に明け暮れていた日々は、ただただ敵を叩きのめすことに精一杯で、確かに詳しい記憶は曖昧なのだけれども。
そこまで考えて、ふと疑問が浮かぶ。そう言えば、果たして自分はいつからあんな喧嘩師紛いの生活をしていたのだろうか? 如何に鬼の副長と呼ばれていようとも所詮ヒトの子、戦禍によって荒れていたあの時代、非力な幼子が独り喧嘩で生き抜けるワケがない。
自分は『どうやって』生きたのだろう。
思い出せないことに今更気付いた。
いや、違う。自分は記憶喪失などではない。ちゃんと分かっている。どうやって生きてきたかなど、母親が死んで、土方家に引き取られて、それから近藤たちと出会って……。
ならば、この、ところどころにかかる霞はなんだ。
脳の引き出しの奥を探れば探るほど闇は深くなる。一定の深さまで潜れば、これ以上は来るなとでも言うようにズキリとこめかみが痛んだ。

「土方さん?」

「……なんでもねェ」

自分の隙を見つけても沖田が攻撃を仕掛けてこないなんてよっぽどだと自嘲しながら、虚空の闇を振り払うように頭を左右に振るった。

「……で?」

気持ちを切り替えて、土方は未だバズーカを構えたままの沖田に話を促した。煙草を吸おうと制服に手を伸ばしたところで、昨夜始末書を処理しながら全て使いきってしまっていたのだったと気付く。そうだ、朝の見廻りのついでに買って来ようと思っていたのだ。夢に引きずられたまま、やはり思考がどこか呆けている。これではいけない。

「てめえがこんな朝早くに俺を襲撃に来るなんざ、俺を起こさなけりゃならねェ案件があったんじゃねェのか?」

無理やり頭を仕事用にシフトさせようと、比較的怠惰といえる生活を営むサボり魔の少年にそう訊けば、「土方さんを殺すためなら早起きだろうと夜更かしだろうと苦じゃありやせんぜ」と返された。なんて奴だ。
それでも茶化した口調と裏腹に、彼の双眸に宿る光も『仕事用』のそれに変わっていた。
人殺しの色だと思う。だけど自分はその考えを表に出してはいけない立場にある。だからそれは真剣な色だと思い直す。まぁ『真剣』といってしまえば、土方の殺害を謀るとき――つまりいつも――彼は『真剣』なのだが。

「総悟?」

きらりと、まだうら若い少年の瞳に危険な薫りを嗅ぎ取って、土方は沖田を正面から見詰めた。

「目撃情報でさァ……」

興奮、というよりは緊張だろうか。ちらりと唇を舐めるその声は、珍しく強ばっていた。

「誰のだ」

「高杉、晋助」

その8音が織り成す名詞の意味を理解して、嗚呼ならばお前が緊張するのも道理か、と。なにせ相手は大物だ。
そう冷静に思う自分がいる一方で、ドクンと心臓が大きく脈打ったのも確かに感じた。

変声期を迎えていない子供の声が、どこかで、確かに『嫌だ!』と叫んだ。



 *



土方は原田を連れて、覆面パトカーで目撃情報があったという現場に向かっていた。もしガセでないならば、かつてない程の大捕物になるだろう。そしてきっと真選組の地位も磐石なものにすることが出来る。
脳は既に捕縛からそのあとの立ち振舞いまで、しっかりと何パターンもの予測と予定を組み立てつつある。今から起こるだろう斬り合いに、気分は、悪い癖だとは思うが高揚する。
しかし、本当は気付いていた。気付かないふりをした。
土方の心は、昂る気分とは裏腹に、この捕物に消極的だ。
何がとか、どこがとか、そういうことではないけれど。ただ、心の奥の奥底を渦巻くこの気持ちを、的確に言い表す日本語が存在しなくて、だから1番近い『消極的』という言葉を使ってみただけだ。内心呟いてみれば、それもまた何か違うと思ったが。もっとこれは、たぶん、そう、『行きたくない』のだ。
ぐらぐらとしたパトカーの振動が気持ち悪い。助手席でありながら車酔いだろうか。車酔いというのは本人の体調と心情に関係してくるものだから、或いは自分は本気で現場に着くことを疎んでいるとでも言うのか。月曜日が憂鬱なサラリーマンか学生か、真選組という仕事に誇りを持っているからこそ、それと同じ感情に起因したものだとは考えたくない。
だけど、何故だろう。
自分はそこに行ってはいけない気がした。

ズキリとしたのは恐らく頭痛。
運転席でハンドルを握る原田が伺わしげにな眼差しを向けてくるのには、捨てておけという意思を込めてシッシッと片手を振ることで、その気遣いを切り捨てる。
車窓の外側に映る江戸の町並みはいつもと全く変わらない安穏とした平和に包まれている、ように見えた。

「些細なことに目を瞑りさえすれば、か」

「え?」

「いや、なんでもねェ」

それより運転に集中しろと促すと、原田は何かを言いかけたが結局警察が事故を起こしてはシャレにならないと思ったのか、口を閉ざしてフロントガラスを見据えた。
その様子を横目で確認してから、再び景色に意識を向けると、視界の片隅に何かが引っかかった。
緋色だと思うのと、ガツンと胸に杭を穿たれたような衝撃が走るのと、「奴だ!」と叫んだのと、ほぼ全てが同時だった。或いは同時だったからこそ、その3つを全て成せたのかも知れない。

「副長!?」

遠目ではあったが、あれは確かにあの男だった。

「そこの自販機の前に車停めろ! 俺が出る、てめえは屯所に連絡だ」

「副長! どうし…」

「だからッ高杉だ!」

自分が彼(か)の緋色を見間違えるはずがない。大した接点もないはずなのに、そう言い切れるのが少し不思議だった。
路肩に駐車するや否や裏路地に消えた高杉を追う。勿論これはあくまでも第1目的が尾行であるから、十分距離を取って駆け出したりはしない。こういった瞬時の判断力は土方が最も優れている。大胆さと慎重さを見事に調和させた行動力に敵わないと思うからこそ、沖田も文句を言いつつも土方が副長として在ることを認め、現在原田もその体調を慮りながらも土方が追跡を担うことに反論しなかったのだろう。
その信頼はひどく心地好い。大切な、何よりも大切な、ここは自分の居場所だ。
『嫌だ!』と、またもや聞こえた幼子の幻聴は『些細なこと』として目を瞑り意識から閉め出した。




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