満月が人を狂わすとは、一体誰が言い始めたことだろうか。
例え、もっと前に狂い始めていたのだとしても。

肌寒さに眼を覚ませば、僅かに開いた窓から月明かりがゆらゆらと射し込んでいた。
真夜中なのだろう、いつもならまだ隣で寝ているはずの男の温もりが感じられなくて違和感を抱く。
次いで、土方は苦笑した。敵方の男が隣にいないことに違和感を抱くなど。
一体いつからこうなったのか。
自答するなら『いつの間にか』だろう。
明確な始まりはなかった。一目見た瞬間だったとも言えたし、斬り合いを重ねていく内に何かが狂っていってしまったのだとも言えた。牽制し合い、逢瀬を重ね、包帯のその下を見たのはいつのことだったか。気付けば、自分に気を許す男がいて、その存外あたたかい腕の中におさまっている自分がいた。
許容したのは自分。
愛したのは――溺れたのは互い。

上半身を起こし、頭を軽く振って覚醒を促す。布団から出た素肌が冷たい空気に触れて粟立った。
いや、違う。背筋に走った震えは、寒さなどではない。
慌ててその元凶の方向へと振り返ると、いつからそこにいたのか、慣れ親しんだ――しかし決して慣れ親しんではいけなかった――男が、血塗れで立っていた。
眼を覚ましたのは、この濃密な殺気のせいで、背筋が粟立ったのは、男の纏う空気の酷薄さのせい。
血臭が鼻腔を犯した。
すぐに気付けなかったのは寝惚けていたからか、男が『いる』ことが当たり前になり過ぎていたからか。
どちらにせよ、鬼と畏れられる自分にしてはあるまじき失態だ。ドSな部下の、屯所泊まりした日には必ずといっても良いほどに行われる寝込みの襲撃に対応するため――だけというワケでもないのだが――本来眠りは非常に浅いはずだった。

「たかすぎ?」

尋ねてみれば、禍々しい殺気を全身にみなぎらせる男は、さも今眼に入ったかとでもいうように、ゆらりと隻眼の焦点をこちらに合わせてきた。
黒と白と、二色のコントラストで暗闇に浮かび上がる男は、纏う着流しの色のみが原因ではない緋色に濡れていた。
それは鮮血。床に捨て置かれた斬殺死体が月明かりに照らされている。
ゆっくり、ゆっくり、男の唇が弧を描く。
昨晩、身体中に花弁を散らしてきたその唇が、腐るほどの愛の言葉を紡いできたその唇が、ゆっくりと、緩慢に、つり上がっていく。

「あ…たかす……」

名前を呼びきることも叶わず、いっそ嗤えるほどに震えた声は途中で消えた。

怖い。

心底そう感じたのは初めてかも知れない。
男が、ではない。
男だけに限らず、形あるモノに自分が怖れを抱くなど有り得ない。怖れるとすれば、それは形なきモノ、眼に見えないモノだ。
真選組結成当初――或いは今も――未熟だったために取り零してしまったたくさんの仲間の魂。ただ、がむしゃらに斬って殺して積もりに積もった敵の侍達の怨念。

そして何より、大切なモノが、絆や心や信念が、目に見えないために、失ってしまっていても気付けないことが一番怖い。

だから視認出来る分、形あるモノを怖れたりはしなかった。
いや、これからもだ。と、そう思う。
現在感じている恐怖は、男そのものに対するそれではないと。
これは、今までが嘘偽りだったのではないかと、或いは今までの関係が既に気付けない内に壊れてしまっていたのではないかと、危惧することによる恐怖だ。
彼を失うかも知れないという不安による恐怖なのだ。

「高杉、」

このままでは彼がいなくなってしまう気がして、今度はしっかりとした口調でその名を紡いだ。
恐怖により呼びきることの出来なかった言葉は、今度は恐怖により呼ぶことが出来た。矛盾していると思った。

「なにしてんだ」

鍔のない愛刀を片手に、緋色に染まる男に問いかけた。
足元に転がる死体は誰なのだろう。ここは土方の私宅だ。見覚えはなかった。

「月が……、」

蠱惑的な隻眼に愉悦を湛えた男が、熟れた唇に笑みを履いたまましっとりとした声で囁いた。
呼びかけが聞こえたのかこちらを見つめて、しかし問いかけが聞こえなかったのか自分本意な脈絡のない話を囁く、囁いてくる。

「緋(あか)いと思わねェかァ?」

「あか、い?」

何が、とは訊かずとも自明であった。先に男はその主語を口にしていたのであったし、男の視線は既に土方から、窓より射し込む月光に移されていた。

「緋いなァ」

隻眼を細めてもう一度囁いた。

「…な、に言ってやがる……」

土方は両眼を見開いて囁いた。いや、これはただ単に掠れただけか。

「白い、だろ……?」

射し込む月光は、どちらかというならば。闇夜を照らす月光は。

「いんや、緋いぜェ? 血が滴ってるみてェに」

「高杉!」

くっくっと、狂ったリズムで喉を震わせ嗤う血塗れの男に耐えられなくなって、土方は大きく叫んだ。
咎めるように、引き戻すように、留めるように、殴り付けるように。

「どうしちまったんだよ……!?」

土方の慟哭にも意を貸さず、未だ歪んだ嗤いを奏でる男に、縋りついて泣きじゃくりたくなった。
膝がガクガクと震えて今にも座り込んでしまいそうだ。

だって今、彼は自分を見ていない。


「なァ土方、てめえにはどう見えるんだ? この世界が、幕府が、侍が? 輝いてるとでも?」

嗤い声に混じり、続いた言葉は、しかし酷く無機質な音だった。
じわり、男の姿が滲んだ。

「まぁ確かに輝いてるように見えるかもなァ……。他人を搾取し自己利益だけを追及し貪り喰らって、パンパンに肥えた醜い躯を汚ねェ緋で染め上げながら光ってやがるからなァ」

じわり、男の姿がぼやけた。
嗚呼、これは涙だと、視界不良の理由をぼんやりと悟る。

「だが、それは輝いてるんじゃねェ。ごてごてに飾り付けた人工物でそう見せかけてるだけだ」

そう吐き捨てて、最後に「穢ェ」と締めくくった。
喉がからからに渇いて、舌が貼り付いたように動かない。
金縛りとはこういうモノだろうかとちらりと考えたのは、脳が現実から逃避したかったからだろう。
何か言わなければ、と。根拠のないな義務感と焦燥に突き動かされて、土方は必死に貼り付いた舌を剥がそうとした。しかし、やはりそれは成功しない。

彼が何故こんなことを言い出したのかは、先の言葉と状況で大体の見当はついている。
だが、その原因ゆえに自分が口出しするのは躊躇われた。

だけど、それでも…

高杉、
高杉、
高杉、
高杉……!

声ではない何かで、名前を連呼しながら、土方は泣き崩れたい自分を戒めた。
彼をこのままにしておくことなど出来やしない。そう出来る程に自分は強くもなければ弱くもない。
そして、そうするには彼への想いが大きく育ち過ぎている。

「高杉…」

そっと手を伸ばして、彼へと一歩…いや、いつもの己の歩幅を鑑みれば半歩といえるだろう僅かな距離を踏み出す。
一度まばたきをすれば、頬に熱い何かが滑り落ちて視界が開けた。

「来んな」

途端に低い声で告げられた心の底からの拒絶に、ちくりと胸が痛んだが知らないふりをしてまた半歩、半歩と距離を詰める。

「斬られてェのかァ?」

「んなワケねェだろ」

彼は今、恐らく自分で自分のコントロールを取ることが出来ないでいる。
明確な嘲笑が込められた問いかけに返した答えは痛みに揺れた。

「死ぬぜェ?」

「殺すぜ、じゃあねェんだな」

言うと同時に土方は残りの間隔を、大きく一歩で詰めた。
その刹那、ピリッとした痛覚が首筋に走る。身に慣れた、冷たく硬質な刀の感触がした。やはり、いつ抜いたのか分からなかったと、自嘲を含めて薄く笑う。
すると男もますます笑みを深くして口を開いた。

「緋いなァてめえも」

囁きと共に、首の薄皮一枚を斬り裂いた刀が、グッと骨の方へと押し込まれる。
勿論、勢いも技巧も何もないただの腕力だけの力押しでは、人の首など斬れるワケがない。それと知っている土方は、身を退こうとはしなかった。

「だが、てめえは綺麗な緋だ」

そんな土方をうっとりと眺めて隻眼が細まった。

「腐って黒ずんだ汚ねェ緋じゃねェ、禍々しくも高潔な紅真珠みてェな緋だ」

これとは違う、と。死体を爪先でゴロンと無造作に指し示す。

「やっぱこうじゃねェとなァ」

満足げに呟かれたその言葉の真意を土方は知っていた。
人の身体を巡る血液は、流れ始めは怖いほど鮮やかな緋い色をしている。しかし体内を回り老廃物と雑じり合ううちに、黒ずんだ鈍い緋い色に変わる。
恩師と部下への情の深さゆえに狂気を身に孕んだこの男は、一体いつからそんな汚物を含んだ緋しか見ていないのだろう。
真っ直ぐで清廉な侍と侍の――鮮血でさえも高潔に感じる信念のぶつかり合いを、一体いつから演じていないのだろう……?

「この世界は汚なくて黒ずんで腐臭がすらァ。こんなモンのために俺達ァ身を削ったんじゃねェ、こんなモンはあの人の好きだった世界じゃねェ、…こんなモンを護りたかったワケじゃねェ! 俺は何も護れねェ!」

たったひとつの眼は、いつの間にかしっかりと土方の両眼を射抜いていた。




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