ひらひらと舞い落ちてくるたくさんのそれらは、もう粉雪などではなかった。桜。古来より武士の花として日本人に好まれてきた、その花弁だ。
暖かな春の木漏れ日が頬を撫でた。不意に吹く東風が伸ばした黒髪を何度も揺らしていった。

――春だ。

誰が何と言おうとも、紛れもない春だ。冬が終わり、山の雪も完全に溶けきったことだろう。
嗚呼、もうすぐ彼はここを発ってしまう。足止めをしていてくれた豪雪が水へと変わり、彼の傷は手当ての甲斐あってか、失われてしまった左眼以外とっくに完治している。ならば最早彼がここに留まる理由はないのだ。

東風のせいでポニーテールに絡まった花びらが面白かったのか、彼は隻眼を細めてこちらに手を伸ばし、ふわりと優しい微笑みを湛えた。
さらさら髪を玩ばれる内に自然と距離が近くなる。

触れた唇の心地好さは、たぶん一生忘れないだろうと思った。



 *



9月、そろそろ季節も秋に移行しようとしていた。
ザアザアと、ここ最近ずっと、水圧で屋根に穴が開くのではないかと心配になる程の豪雨が降り続いている。バシバシと雨粒が窓に当たって嫌な音を立てる。
真選組の屯所は、実は昔からある寺を借りている。雨漏りも幾つかしているだろう。
せめてその水滴で滑って怪我したなどという間抜けた報告が隊士達から上がらぬことを土方は祈った。

『強い勢力を持った台風12号ですが…』

ふと何となく気になってラジオのつまみを捻ると、この豪雨の原因がまだまだ関東上空に居座るつもりであると知れた。
『アナウンサー』というよりは、『ニュースキャスター』という言葉を想像する感情の読みにくい淡々とした声だった。
自分の眼で確めよう……というワケでもないが、ちらりと窓の外に視線を遣る。しかし、暗い屋外は明るい室内を反射して、不機嫌そうな自分の顔を写し返してきただけだった。

明らかに不満気な、或いは欲求不満を剥き出しにした表情に、我ながら呆れる。
それなら道場で竹刀でも振ってくればいいのだが、如何せん、今は隊士達が稽古――しかもバスケの――で使用中だ。流石にそれに混ざる気はない。

(なんだかなぁ……)

さて、ならばどうするか。
意識的にそんなことを考えるが、本来の生真面目な性質が机に積み上げられた始末書の山の存在を忘れさせてくれない。
他に出来る人材が少ないために土方に回ってくるのであって、デスクワークは好きでも得意でもなんでもない。それでも仕方ない、と中断していた始末書の処理に取りかかる。

ジリリリリリ

筆の先に墨をつけたとき、不意に副長室に引かれた黒電話が鳴り響いた。
一瞬戸惑う。土方にかかってくる電話は仕事絡みのものが殆どで、大抵ケータイにかかる。土方が副長室にいるとは限らないからだ。勿論この時代遅れの電話機には、内線なんて洒落た機能はついてなく、だから屯所内にいる隊士がケータイ代節約のためにかけてきているのでもない。
誰だろうか。そう訝しむも結局無視するという選択が出来るワケがなく、ひとつため息をついてから受話器を取った。

「はい、こちら真選組…」

『土方かァ?』

形式ばった挨拶など不要とでも言うように口上を遮った心地好い男性の声が、低く耳を打った。

「……誰だ」

カラカラに乾いた唇を舐めて問い返す。聞き覚えのない声の質問に、素直に答えてやるだけの無邪気さなど、生憎10を少しばかり越した頃に無くしてしまった。
果たして、自分の声はいつも通りに繕えているのだろうか。
そう懸念すること自体、本当は相手の声に聞き覚えがあるという証拠なのだと囁く本能には、理性を持ってシカトを決め込む。だってこの声を、今の自分は知っていてはいけない。
こんなもの、上京を決めた際に、そこに付随する想いと共に脳内から消去したのだから。

「もう一度だけ訊く。答えないなら切る。てめえは誰だ」

だから、必要以上に酷薄にそう問えば、相手はさして気にした様子もなく笑った。

『ククッ、ホントに忘れたってのかァ? 違うよなぁ、十四郎』

続いて返された応えは、問いに対する答えになっているものではなかった。
それでも、男の話す意味を正しく理解した瞬間、震え出した手から受話器が音を立てて滑り落ちた。

嗚呼、何故この男はこちらの拒絶を正確に察しておきながら、わざと『そういう』言葉を並べるのか。
嫌でも記憶を揺さぶるように、理性を持って拒絶することが出来ないように。

人を揶揄するような独特の笑い方も、自分を呼ぶその呼び方も。
何もかもが否定できない。惚けることも、素知らぬフリをすることも、記憶に蓋をすることも。
電話口から聞こえてくる、自分を呼ぶ、その、すべてが、忘れたはずの懐かしい声だった。




春は嫌いだった。

楽しい想い出など一年を通してあるはずもなく、全部が嫌いなその中で、特に彼が去っていった春が大嫌いだった。

近藤達と知り合って、花見という行事を知ってからは、嫌悪は幾分和らいだと言っても。




そこまで考えて不意に、脳裏に一生ついていくと己に誓った、誰よりも純粋で優しい大将の豪快な笑顔が蘇って、土方は食べ物を前にした餓鬼のような必死さで、取り落とした受話器にすがり付いた。
はやく電話を切らなければ。

「てめえ……!」

『ククッやっぱり覚えてんじゃねェか』

「ッッ!」

心底愉しそうに、電話口の向こうがクツクツ喉を鳴らしている。
反論しようとするも、咥内に貼り付いたまま言葉は出てこなかった。そもそも土方は、自分が何を言ってやりたいのか分かっていない。切ってやるはずが、何故もう一度受話器を耳口に当ててしまったのかも分からない。そしてそれは、男に対しての事実上の敗北宣言に等しかった。
唇を噛む。気配が伝わったのか、男は獲物の首筋を捕らえたように、押し殺した笑いを満足げに漏らした。

――明日、待ってる。

そう言い残して電話は一方的に途切れた。生来勝手な男だが、これはあんまりではないか。
場所も時間も告げられず、また今の互いの立場を知りながら、それでも男は自分が来ることを疑っていないようだった。

「……ざけんじゃねェ」

もう繋がってないとは分かっていたが、耐えきれずに低く呟いた。ツーツーという無機質な電子音だけがこだまする。

「ふざけんじゃねぇぞ、今更ッッ、嗚呼そうだチクショウ! 今更だッッ!」

どうして今更、接触など求めてきたのか。紛れもない怒りを込めて吐き捨てた台詞は震えていて、ともすれば泣き声のようにも聞こえた。
今更だ、すべて今更だというのに、あの男はまた、もう一度、あの頃に戻りたいのだろうか……?

少し、男の真意を推測しては、迷った。
電話の繋がりを切ったのは自分ではない。彼こそが自分を『来させるために』固定電話から土方を解放したのだった。




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