ふわりと優しく頬を撫でてくる手に、言い様のないセツナさを感じた。切なさなのか、刹那さなのか、たぶんどちらにも当てはまるのだろう。
「土方ぁ」
男が呼ぶ。俺は寝たふりを貫く。返せるモノなど何もない。
「土方、俺ぁ……」
やめろ。
声に表れない内心で制止の言葉を叫ぶ。それこそ俺が臆病者だという証拠だ。
まだ、俺に選ばせるな、選ばせるなよ高杉。嗚呼、ホント馬鹿だなお前ェ。
「あいしてたぜ」
ふわりと優しく頬を撫でていた手の温もりが去っていく。
男が俺にくれた最期の愛の言葉は、何よりも愛しく哀しく耐え難く、そして何よりも雄弁だった。
だってそれは過去形だった。
「俺も、あいしてた」
男が部屋から出ていった気配を感じてから、俺は呟くでも囁くでもなく、ただそう言った。もしかしたらまだ襖を隔てた直ぐ向こう側にいる彼に聞こえていたかも知れない。自分の卑怯さにいい加減ヘドが出る。
哀しい哀しい哀しい寂しい。
もうこの私宅が使われることはないだろう。元々、屯所の自室で事足りていたのだ。
勤務時間が終わった後も、それが例えば非番の日でも、屯所にいてはならない理由にはならないし、副長という立場を考えれば、寧ろいてしかるべきなのだ。
だから、ここを使うのは、てめえに会うためだけだったんだぜ?
嗚呼、ホント馬鹿だなお前ェ。こんな上等な一軒家を空き家にしやがって。
……嗚呼、ホント馬鹿だな俺ァ。
さよならなんて言いたくないよだからお願い君のただいまが聞きたい
*
「俺も、あいしてた」
襖を隔てた向こう側から、声を落とすでもない寧ろ聞かせるような音量の言葉が聴こえてきて、本当に卑怯者だと思った。
女々しさにヘドが出る。
土方がそれを言ったのは、俺が部屋を出て数分が経った頃だった。本来なら伝わるはずのない言葉だ。普通に部屋を出て、普通に廊下を歩き、普通に玄関を通過していたのならば、こんなところで立ち止まっていなかったならば。
嗚呼、そうさ。聞こえたんじゃねェさ、聴いたんだ。
てめえで別れを告げておきながら、未練がましくあいつがそれを拒絶することを無意識下で望んだんだ。本当に、卑怯者。女々しいのは、自分。
タイムリミットは近い。この期を逃すと、倒幕なんて夢のまた夢になるだろう。今しかないのだ。
これ以上幕府が力を持たない内に、春雨がまだ確実に攘夷派の味方である内に。
今更破壊をやめるには、俺は人生をかけすぎた。ブレーキのイカれた電車みたいに、目的地まで真っ直ぐ引かれたレールの上を、目的地にぶつかって大破するまで止められない。
「嗚呼、ホント馬鹿だな俺ァ」
嗚呼、ホント馬鹿だなお前ェも。
あいしてたなんかじゃなく、あいしてるって言やぁ良かっただろうが。あいしてたって言われたとしても、そこで返すべきは『俺も』じゃねぇだろ『俺は』だろ。
そしたら俺だって振り返ってやれたんだ。振り返って、振り返ることが赦されたんだ。
なのにお前ェは俺を引き留めない。それこそ1度だって『やめろ』と言わないし、言わなかった。
俺といるときに真選組副長であることを引きずらない代わりに、真選組副長であるときに『土方十四郎』であることを引きずらない。
嗚呼、どうしててめえはそんなに強かった。
そこに惹かれたのだと自覚していても、責めずにはいられない。
嗚呼、どうして俺ァ、あのとき――今、てめえの隣に立つことを許された銀色のように――踏みとどまれない程弱かった。
どうしても駄目なのですか僕等は決して相容れる事は出来ないのですか
*
「あんたは来なくていいんですぜ?」
そんな台詞を、俺は吐かれてはならなかった。
「何馬鹿言ってやがる。てめえなんかに現場任せておけるか」
だから痛む本心を圧し殺して、そう言い返さなければならなかった。
すると総悟はふいと視線を反らして何も言わなくなった。
なんだよ、そこはいつもなら『なんでぃせっかく俺があんたの代わりに副長を勤めてやるって提案してるのに』って憎まれ口を叩く場面だろうが。何故それを言わない。言ったらホントに副長職を譲られるとでも思ってんのか馬鹿かお前。
第一、俺はさっきちゃんと『俺』らしく『俺』が言うべき言葉を返せたじゃねぇか。お前が吐いた台詞は、俺を現場に向かわざるを得なくさせたじゃねぇか。不安がるなよ、揺らぐだろ。
嗚呼、それとも、その台詞を吐いたら俺がそう言い返すことを見込んでそう言ったのなら、お前は大したもんだよ副長職を譲ったっていいぐらいさ。なんて、な。矛盾。
「車回せ」
微妙な表情のままの総悟に告げて、腰にさした刀を鞘の上から握り締める。
1度あいつの計画に組み込まれたことのある妖刀を持って、あいつの計画を阻止しに行く俺は、端から見れば滑稽に違いない。
だからと言って妖刀を捨てれば行かなくてすむのか? 副長職を総悟に譲れば? あの男の手を離さなければ?
違うだろ、全然違うだろ。可能性は可能性でしかなく、『俺』という人格が形成された俺には、そんな選択など出来やしない。
俺が『俺』である道を、あいつが『あいつ』である道を、互いに選んだ時点で、あいつと共にいるという可能性はことごとく全て潰されてしまったのだから。
助けが欲しくて手を伸ばしても、俺が秘密にしているから近藤さんは手を握ってはくれないし、あいつの手はとっくの昔、俺が真選組副長になったあのとき――それこそあいつと出会う以前に、振り払ってしまっているのだ。
ここはとても暗く湿って光が欲しくて手を伸ばせばつねられて助けを求めればぶたれるの
*
こうなることは、お互いある程度予測済みだった。
俺は死ぬために刀を振るったのだし、お前は生きるために刀を振るったのだし。
俺はいつ終わっても、目的が達成される前だとしても、別に全然構わなかったんだ。収める鞘を喪った刃を止めることが出来れば何だって。
だけどお前は違うだろ。刀を振るう理由はそんな破滅的な理由なんかじゃないだろ。
お前のそれは護るためだ。俺がなくしてしまった、何よりも尊い理由だ。
なぁ今てめえは『何』を護った? 唯一無二の大将か? 我が子のような組織か? 江戸に住む者の命か? それともてめえの信念か、それとも俺の信念か?
嗚呼、分かってるさ、馬鹿みてぇだがな。
だから俺はお前を殺せないけど、お前は俺を殺すことが出来るんだ。
目が見えないよ耳が聞こえないよ手足が動かないよでも感じるの、ああ、君は泣いている
*
高杉晋助が生きている。
そんな噂をここ最近耳にするようになった。しかもタチの悪いことにそれはデマなんかじゃないらしい。
なんだ、やっぱり俺は仕留め損ねたのか。あの至近距離で、あの体勢で、刃に血糊が付着していたからなんて言い訳にもなりゃしない。
そもそも、あいつが悪いんだ。受け入れるみたいに両手を広げて、強がりでもなんでもない笑みを見せて、あんな今わの際みたいな戯れ言をほざくから。
いや、実際『今わの際』だったのだけれども。
「副長、最近嬉しそうですね」
「そうか?」
「えぇ、鬼兵隊のクーデターを阻止したあの日から、気付けばいつも口元が笑ってますよ?」
あの高杉晋助を仕留めたからそうだったのかと思っていたら、最近の噂を聞く限りじゃそういうことでもなさそうですし、と無駄に俺を見ている山崎が言う。
嗚呼、馬鹿だな山崎。違うんだよ。
俺は高杉晋助を仕留めたと思ったから哀しみを誤魔化すように笑ったのだし、俺は高杉晋助が生きているという噂を聞いて嬉しくて笑っているのだ。
そんなこと教えてやれはしないけど。
不意に目の端が派手な赤い着物を捉えて、やっぱり俺は笑みを浮かべた。
証拠にカチャリと腰にさした妖刀が揺れた。
知らない振りして笑った気付かない振りして笑った楽しい振りして笑った平気な振りして笑った
(そして今は、知ったからこそ気付いたからこそ楽しいからこそ平気な振りして笑うんだ)
TITLE:雲の空耳と独り言+α様