Side:高杉



江戸の湾に浮かべた屋形船は、遠い昔に辰馬から誕生祝いだ何だと押し付けられた俺の私物だった。そこにあいつを招待したのは特に意味のあることではなく、単にあの鬼には洋装よりも和装の方が存外似合うのではないかと、ふと思ったからだ。
星ひとつ見えぬ曇天の夜空。そいつを写し取る水面(みなも)はどこまでも墜ちていけそうな闇色で、ぽつぽつと浮かべてある篝火が頼りなさげに揺蕩んでいる。床にごろごろ散らばった酒瓶は風流とは言い難いが、今日は飲み飲まれたい気分だ、致し方ない。
酒を片手に、船の窓から揺れる波を見つめていると、やがて「晋助」と背後から声が上がった。万斉のものだ。待ち人来たる、というやつらしい。

「随分と遅かったじゃねェか」

振り向きついでに目を細めてからかえば、「時間指定はなかったはずだろ」と憮然とした調子で万斉の前に立つ男が反論した。
外の空気が溶けたかのような黒の着流しを着て、それよりも深い黒髪を宿す真選組の鬼副長殿は、背後から刀を突き付けられながらもなかなかに冷静なご様子だ。

「万斉、いい」

「しかし……」

前回は見受けられなかったそのふてぶてしさをうっかり気に入って上機嫌のままに促せば、万斉は一瞬渋るそぶりを見せた後、しかし諦めたように土方の喉元に突き付けていた刀を鞘へ収めた。
土方が僅かに安堵の息を漏らす。流石にある程度緊張していたらしい。面白い男だ、と思う。
俺は邪魔だという意味を込めて、ひらりと片手を揺らした。

「まさか下がれとまでは言わぬでござろう!?」

それが自分に向けられていると気付いた万斉が、珍しく焦ったような声を上げた。
おい煩ェよ、まるでてめえを下げたら俺が危ねェみてェな言い方をわざわざこいつに聞かせて自信つけさせてんじゃねェ。マジで抵抗されちゃあ面倒だろォが。

「何も問題ねェだろォ?」

だから敢えてそう悠然と構えて見せると、万斉は己の失態に――これまた珍しく苛立ったように――小さな舌打ちをした後、ふと肩の力を抜いて「ならば“変な気”は起こさぬよう」と不必要なほど一部分を強調して溜め息をついた。まぁまぁ上手く取り繕った、といったところだろう。
男色扱いされたのは心外だが、先程退出を渋ったのはこういう意味だと、貴様の力量を認めているわけではないのだと、聡い鬼に仄めかすのには十分役目を果たしてくれた。

「真選組の鬼副長殿は、噂に違わず太夫のような容姿を持ち合わせていたようでござるからな」

だから、去り際の捨て台詞は先述の補強ではなく、単なる嫌味だろう。売女に比喩された矜持の高い男は、不機嫌そうに眉を顰めた。
俺は万斉の気配が完全に遠のいたのを確認してから、未だご機嫌ななめな男に手にしていた酒瓶を突き出した。薄い虹彩の眼がちらりと酒に注がれ、だがすぐに俺――正確には俺を見ているフリをした俺の後ろの景色――に戻る。

「なんの用だ」

感情を殺したような声で土方が切り出した。
ここで、他人様と話すときは相手の目を見てと習わなかったか、とからかっても良かったのだが、一周回って開き直られても面倒だからやめた。精神的優位に立っているのは、初めての邂逅から相も変わらずこっちだ。

「用? 訪ねてきたのァてめえだろ」

「わざとらしい艶文送り付けておいてよく言うぜ」

警戒しているのか土方は入口の前で突っ立ったまま座ろうとしない。こっちに来いと手招きすると、少し渋る様子を見せた後、罠はないとみたのか、どすどすとぞんざいな歩みで近づいてきた。
目の前で立ち止まり、見下すように見下ろしてくる。睨み付けているのか不貞腐れているのか、どっちともとれる表情に、面白い男だと再び思った。
黒い着流しから覗く白い手首を掴んで引き寄せる。想像以上にほっそりしたそれに多少の驚きを覚えながらも、バランスを崩して倒れ込んできた土方の唇に自分のを重ねてみた。舌を入れようと試みたところで突き飛ばされる。

「ついさっき念押されたばっかじゃねェのか」

土方は手の甲でぐりぐりと乱暴に唇を擦ると、狼狽気味に吐き捨てた。そんなつもりはなかったが、万斉の言葉が巧い具合に布石になっちまったらしい。身の危険とでも思ったのだろうか半歩後ずさるのを許さないとばかりに距離を詰めて、ついでに勢いのまま押し倒した。
至近距離で見つめると、困惑、動揺、驚き、戸惑い、警戒、と様々な感情が両眼に浮かんではきえていった。
顔を近づけると、怯えたようにぎゅうと瞳が閉じられる。
男はまるっきり趣味じゃねェが、構わねェと思える程度にこいつの反応は面白い。或いは単に酔っぱらって頭が沸いているだけか。

「なァ、てめえはこの世界をどう思う」

目をつぶっているのを幸いと、俺は土方の耳元に口を寄せて、女に睦言を囁くときのような低い声で本題を切り出した。