代償と愛情


柔らかな日溜まりが緑を輝かせている中庭の端でヒメはため息をついていた。
覚悟をしていたつもりだったし、隣にいることを望んでいたことだった筈が思いの外ソレは身体に伸し掛かる。
小鳥の囀りとはミスマッチなため息は止まることはなく、問題は解決する訳でもない。


ことの発端は、今まで特段隠しているつもりはなかったが、遂に公にヒメの存在が発表された。
ピオニーの婚約者として民衆に顔見せを行った。
御年35になるピオニーがやっと婚約者を見初めたのだから素直に喜ぶ者が多いのは事実だったが、それだけで済まないのが皇帝の妻として共に君臨することになる者の性、悔し気に恨めしい眼差しを送る者、我慢ならずに悲嘆し呪う様な嫌悪の篭った言葉を吐き出す者もいた。
大概負の感情を持ちえている者は、地位や権力に目が眩んで蠅の様にピオニーに集り続けた貴族院出身の者たちばかりだった。
ヒメはもちろんわかっていた筈だった。自分の年齢はもう29になる、このご時世で言えば行き遅れの女であることには変わりなく、家柄は騎士の家系ではあるがそこまで名門かと言われたらそう言う訳でもない。長年に渡る親不孝者の娘の所為か当主の采配がヘタクソな所為か徐々に廃れてきている。
だからこそ貴族たちは騒ぐのだ。自分たちよりも低い地位の行き遅れの娘が長年ピオニーの隣に仕え続けたのは行き遅れた自分を見かねた皇帝に恩情を与えて貰う為だと、卑しい娘だと。
気にしていないと言えば嘘になるが、貴族院らの負の感情は予測できる範疇でのものでさして堪えるモノでもない。どちらかと言えば後者の方がヒメにとっては堪えているのだ。

メイド長と親しい間柄の同僚にしか伝えていなかったのが仇となってか、ピオニーとの婚約関係を国中に公式発表され、知らなかった城の者たちも勿論大騒ぎだった。
顔見せが終わるとすぐに馴れないドレスを脱ぎ捨ててヒメは女中服へと戻ろうとした。
が。見る見るうちに取り囲まれ、女中服は取り上げられ見慣れないドレスをまた着せられ、今まで私室として使っていた部屋も追い出されてしまった。そして引きずられる様に立派な部屋に連れてこられた。
これ見よがしに端正なドレスたちが部屋にずらりと並んでいる。
一体どういうことかと思い同僚に問うと砕けた間柄だった筈の同僚・マリアは恭しく自分に接するのだ。

「今後は私がヒメ様の身の回りをお世話させていただきますわ」
「…! 何を言っているのマリア…。自分のことだったら自分でできるわ。それに、今後もピオニー様に仕えるの。部屋だって服だって今までと変わらないわ」
「いいえ、そのようなことはなさってはいけませんわ。貴女様は時期にお妃様になられるのですから」
「やめて頂戴、マリア!貴女とは普通にお話がしたいわ」
「……そうもいかないのよ、ヒメ」

でも、と話を続けようとした所で女中の先輩が部屋へと訪れてマリアとの会話はそこで終わってしまった。
これが堪えている現状の後者にあたる。
バタバタと代わる代わる次期妃に挨拶も兼ねて様々な使用人が部屋を行き来し、政にも今後は多少なりとも関わってくるからと教育係を今更取り付けられ、眩暈がしそうになるのを必死に耐えながらひっくり返った自分の日常を少しでも取り戻したいと、やっとの思いで中庭まで抜け出して来たのだった。
そして冒頭よろしく、ため息と小鳥の囀りのミスマッチなアンサンブルが繰り広げられている。

「妃になるってことはこんなにも不自由なのね…」

「そういえばピオニー様は一体今どうされているのかしら…」

言葉を紡いだ所で返答はない。遣る瀬ない感情に解放されたくて、滅多に中庭に人は来ないが誰の目線も気にせずに身体を青々とした芝生の上に投げやった。
ヒメもバタバタと振り回されたのだ恐らくピオニーも”来客”からの質問攻めに対応していて自分よりも忙しくしているのは目に見えている。
まだこうやって普段のピオニーよろしく中庭でサボっている自分はいい方なのではないかとすら思えてくる。
空を仰いで先程まで悠長に囀っていたであろう小鳥が羽ばたいていくのを恨めしそうに見つめる、一羽だと思っていた鳥はどうやら二羽だったようだ。番の小鳥なのだろうダンスを踊る様に真上で羽ばたく小鳥は自由だ。
掴める筈もないのに気疲れして鉛の様に重くなった腕を空に向かって伸ばした。
まだ妃になっていないというのにこの調子では保たないのは理解しているが、今日ぐらいいいじゃないか。そう思っていた矢先つんざく様な声が中庭に面している廊下から聞こえた。

「ピオニー陛下は一体何を考えておられるのだか!」
「ヒメとか言ったかしら?あの様な行き遅れの醜女にかしずくなんて嫌よ!本来なら私が民衆の前に立つ筈だったのに!!」
「あなたどうにかして頂戴!これではお妃教育を受けさせていたこの子が浮かばれないわ」
「ああ、わかっているとも!全くどうしたことやら…」
「…あら…ねぇあちらを見て下さる?陛下のご婚約者様ともあろう方が芝生の上で悠長に寝転げていらっしゃるわ!」
「まあ!はしたない!見てはいけないわ。貴女まで醜女がうつってしまう」
「卑しい女には城の中庭など勿体ない!」
「これはこれは、アルタイル伯爵。奥様もお嬢様もご無沙汰しております」

ピオニーに謁見していたらしいアルタイル家一行は芝生に寝そべるヒメの姿を見つけると更に馬鹿にした様に嫌悪を吐き散らかす。無論ヒメの耳にもその声は届いている、聞こえる様にわざと言っているとしか思えない。
ふとその一行に声をかけた男がいた。良く聞いたことがある声の主はジェイド・カーティスだ。
嫌味を聞かれてしまっていたのではと慌てる一行を他所にジェイドはにこやかに挨拶をしてみせる。
咳払いをして何事もなかったかの様に口を開いたのはアルタイル伯爵だった。
アルタイル家も馬鹿ではない、次期妃の悪口を、最近やっと大佐への出世を受け入れた皇帝の懐刀に聞かれてしまったとなればピオニーの耳にその悪態が入ったも同然だからだ。

「おや、あちらにいらっしゃるのは次期お妃様のヒメ様ではありませんか?」
「は、はぁ…そのようですな」
「ご挨拶はされたのですか?」
「い、いえ…気持良さそうに芝生と戯れていらっしゃるので恐れ多くてご遠慮していたのですわ…」
「そうでしたか」
「ご婚約を発表されたと言うのに悠長にあちらでお休みになっていることを許されるのですから陛下はご寛大な方でおられる…」
「おや、ご存知ではないのですか?」
「は…?一体なんのことでしょう」

ヒメは会話こそ聞こえているものの、アルタイル一行の表情も検討が付かない。所々に遠回しに嫌味が混じっているのがジェイドに指摘されないよう上手く誤摩化しているつもりらしい
特権階級の者たちの会話に嫌味が混じっていないことなど殆どないのだから一々気にしていても仕方がないが、ジェイドは何やら仕掛けるつもりらしい。それだけはヒメにもわかった。

「今ヒメ様がお休みになっている場所は陛下の特等席なのですよ。この時間帯は丁度日差しが心地よいと良く仰られていました。お側付きを何年もされていた彼女はそれを勿論ご存知でしょうし、お互いに憩いの場を共有されているなんて今世紀始まって以来の仲睦まじいご夫婦になられるのでしょうね」
「さ、左様でしたか…」
「ええ。ちなみに陛下もあの様に横になってお休みになるのがお好きだとか」
「…そ、それは有益な情報でした。さ、我々は馬車を待たせています故、失礼させていただきますぞ!」
「そろそろ陛下もこちらにお休みにいらっしゃると思っていたので、ついお止めしてしまいました。それでは」

これはジェイドの牽制だ。いつなんどき誰が聞き耳を立てているのだから油断するな。と
意味を理解したのか慌てた様子で場を離れていったアルタイル伯爵らを見送った後に、クスクスと笑いを零しながらジェイドはヒメに近づく
それに気が付いたのかヒメは上体を起こしてジェイドに会釈をした。

「らしくありませんねぇ。貴女がここでサボっているなんて」
「まだ半日も経っていないのに一気に日常が変わってしまって…ピオニー様のお気持ちがわかったような気がしますわ…」
「ふむ。一日で音を上げてしまっては今後保ちません。陛下の様に頻繁では困りますが、たまにならいいでしょう」
「ええ、そう言って下さると嬉しいですわ。ですが…」

ジェイドは徐にヒメの隣に座り話を伺った。同僚のマリアは恭しく接して来たが目の前に居る彼はどうやらいつもの態度と変わらないのでついつい話し始めてしまう。
浮かない顔で部屋に戻っては皆が心配するからと、全部話を聞く素振りを見せるジェイドに安堵感からかヒメは目頭がじわじわと熱くなるような感覚を覚えた。
一番堪え難いのは周りの態度や環境が半日にして一変したことだ。まだ初日だから環境に馴れないだけなのかも知れないがそれでも周りの態度は距離がどんどんと離れていってしまう気がして馴れたいとも思えなかった。
ちょっとやそっとの悪態などちっとも堪えないとジェイドに伝えればポロリと涙が一粒零れる。
まさか泣くほどとは、と思ったのかギョッとしたジェイドが身を乗り出して涙を拭おうとすれば、背後の方でガサリと芝生が踏みつけられる音が聞こえた。
2人で後ろを振り返るとそこにはピオニーがおり、彼からすればジェイドが自分の婚約者を泣かせている場面とも取れる。

「おいおい…俺の可愛いヒメを泣かせるとはどういう了見だ?」
「! ピオニー様!誤解です…私が…」
「やっとご登場ですか。…このまま泣いている彼女を連れ去ってしまう算段が崩れてしまいました」
「思ってもないことを言うんじゃない。お前には恋人がいるだろ」
「愛人として迎えることは可能ですがね」
「ったく無礼な奴め」

端から見れば修羅場のような場面だが、ピオニーもジェイドもさして本気で話している訳ではない。
ピオニーはヒメの真横に座っていたジェイドの間に入って退かす様にドカリとその場に座った。
やれやれと肩を竦めたジェイドは立ち上がって、彼女から訳を聞く様にと飄々とした態度のままその場を去って行った。決して他の誰にも真似できない態度を皇帝に遣って退けるジェイドをヒメは尊敬する様に見送った。

「それでヒメ、一体なんだって泣いていたんだ?」
「それは…こうも簡単に環境が変わるとは思ってもみなかったので、目が回ってしまったのですわ…」
「ほう。公表してたった半日で俺の隣に居るのが嫌になったか?」
「いいえ!そんなことは」
「そうか。では何がそなたを泣かせる?」
「私の我が侭なのです。今まで通り友人たちとは肩書きなど気にせずに触れ合いたい。ピオニー様の身の回りのお世話をしたい。けれど…私の普段の生活が全てなくなってしまう気がして」
「…そのドレスも似合っているがどうもしっくり来ないな。ヒメは女中服がよく似合う。全てを叶えてやれることはできないが、俺の身の周りはお前に今まで通りやって欲しい」
「よろしいのですか…?」
「ああ。まあ女中たちのメンツもあるから毎日女中服を着せる訳にはいかんけどな。それに友人たちには俺やヒメの前だけなら気軽に話すことを許そう。どんな言葉でもヒメに危害が及ばないのなら俺は構わないさ」
「ピオニー様…ですが彼女たちがそうしてくれるか…」
「なに。ヒメがしっかり気持ちを伝えれば、お前の友人だ。理解するだろう」

無理して王族の風習に沿うことはない。とピオニーは続ける。

「今後はもっとヒメには苦労が付きまとうことになるだろう。だが、俺は妃としてお前を娶る。これだけは譲れない。お前意外俺はもう望まないし、お前もそうであって欲しい。
俺はヒメがヒメらしく、側付きとしてではなく伴侶として居てくれればいいのさ。それでは不満か?」
「っ…!十分過ぎますわ」
「そう言えばまだちゃんと言ってなかったな」
「? 何をでしょう」
「なあヒメ」
「はい、ピオニー様」
「俺と結婚してくれないか」
「…よろこんで!」


憂いていたのが嘘の様に晴れていく
ピオニーはヒメに不自由な思いはさせないと約束した。
気が付けば中庭に面した廊下で恐いもの見たさでか何人かの女中と兵士が覗き見をしていたが、そんなの構うことなく見届人として敢えて人払いもせずに抱き合い唇を重ねる
その中には部屋から姿を消したヒメを探していたマリアの姿もあった。
ピオニーは腕の中にしまい込んだヒメには見えない様にだが廊下の方へと目線を見やってマリアに向かって目配せをする。
これで十分理解したとでもいうようにマリアは微笑みながら頷いていた。

「今すぐ祝言を挙げて、お前を部屋に連れ込みたいな」
「まあ、気が早いですわ…!私たちはまだ未婚の男女ですもの」
「そう堅いことを言うな。随分待ったぞ」
「それはこっちの台詞ですわ」
「そうだったな…。連れ込めないなら、ヒメが折れるまで愛を囁こうか」


ピオニーとヒメの笑い声が中庭に響き、番の小鳥がまた囀り始めた。



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