優しく触れないで


「ふむ…どうやら怒らせてしまったようだ」


ピオニーの声が私室の中でこだました。
朝一番に来るはずのヒメは自分の部屋へはやってこなかったのだ。
心当たりは一つしかなく、昨日のジェイドとヒメ2人の婚約を自分が勝手に進み出たのは地雷でしかなかったようだ。
傍付きに置く様になってからの16年間の間ヒメが職務を放棄した事など一度もなくピオニーを非常に驚かせた。
頭を冷やしてくる。と出て行った後もピオニーの元に戻って来る事はなく、毎日一番長い時間を過ごしているヒメがいないことになんだかソワソワと落ち着かなかった。
その時、コンコンと私室の扉が叩かれ、普段の彼女であれば返事を待たずして入って来る事もしばしばだったためピオニーは無言で扉を見つめていた。
彼女は一体どんな顔をして入って来るのだろうと気になっていた。
しかし一向に扉が開かれる事はなく、またコンコンと控えめに扉がなった。どうやら扉の向こうの人物はヒメではないらしい。あからさまにため息を付いて、入れと一言発すると失礼致します。と自分の部屋を滅多に出入りしない若い女中が緊張した様子で入って来た。

「お、お茶をお持ち致しました。」
「…」
「ピ、ピオニー陛下…?」
「…あ、ああ。頼む」

普段とは違う女中がお茶を自分へ運んで来たらしい。なかなか返事をしない自分に不安を覚えたのか、チラチラとピオニーを見るが、その目は何かを期待している様に爛々として頬が上気していた。
一度目を合わせれば恥ずかしそうに目を逸らす女中にピオニーは思わず、ヒメはこんな風に俺をあわよくばと色眼鏡で見て来る事はないのに。と自分を意識している女中に悪い気はしないが居心地の悪さをひしひしと感じた。
名も知らない女中が入れたお茶を一口飲めば、思わず目を見張った。
王宮に上がる物はもちろん一流のものを揃えている、食材や衣服、茶葉だってそうだ。
もちろん下町へ抜け出して買い食いをした事もあり、一流の品ではなくても美味い物は美味い。様は作り手の問題だ。とピオニーは思っていたが、ここまでか。と頭を抱えたくなった。
女中は自分が一口飲んだ後から量の減らない紅茶とフリーズしたピオニーを不思議そうに見ていた。そして期待もしているのだろう。
この16年の間ピオニーが身の回りの世話を申し付けているのはヒメ1人だけ。どういった経緯でこの女中がお茶を運びに来たのかはわからないが、ここで気に入られて自分が傍付きへとのし上がる事が出来ればそれは紛れもなく女中としては出世と言っても過言ではないのだろう。
千載一遇のチャンスに期待感がだだ漏れだ。
やっとピオニーが硬直から解け、少し息を付いて紅茶を覗いた。

「…これはいつも使っている茶葉か?」
「は、はい!陛下がお好きだと耳にしていた茶葉でお入れさせていただきました!お口に合いましたでしょうか?」

どうやら女中はピオニーの顔色を伺う能力が乏しいらしい。
わざとらしく更に深くため息を付いたピオニーがチラリと女中を見れば、これは失敗したのだ。と察したらしい。肩をビクリと震わせていた。

「茶の入れ方は誰から教わった?」
「入りたての頃にメイド長から一度…」
「お前、今度ヒメの入れた茶を飲んでみると良い。あまりこのような事は言いたくないが控えめに言って不味い…」

ピオニーは滅多な事でなければ女中であろうと女性には優しく接する紳士だった。
だが一度極上を味わってしまった自分の舌はよほど肥えてしまっていた事に気がつきヒメの顔とニコニコと紅茶を入れる所作を鮮明に思い出した。
ヒメのお茶を飲み続けていた自分はどうやら”紅茶ごとき”で胃袋を掴まれていたらしい、自嘲が漏れた。
女中は慌てて入れ直すと申し出たが、いい。と端的に伝え女中に目をやる事はなく、自分が求める人物の名を呼ぶ。

「…なぁ、ヒメはどうしたんだ?昨日の夕刻から顔を見ていないんだ。それに今日アイツは休みではないだろう?」
「…はい、実はヒメさん、昨夜から伏せってしまったようでして、今日は休ませてほしいとメイド長に申し出ていたのを聞きました。」
「…そうか、部屋にいるのか?」
「はい、申し出て以来お部屋から出て来るのを見た者はいないと思います…」

どうやら自分がヒメにしてしまった事は地雷どころか体調を崩すまでの威力があったらしい。
ピオニーは今度こそ頭を抱え、心配する女中に案ずるなと伝えた後に力なく手を払い出て行くように促した。
見向きもされなかった女中は静かに返事をして肩を落としながら部屋をあとにしたのは言うまでもない。


△△△


女中の仕事を始めて、稀にある公休以外で仕事を休んだ事はなかった。
仕事を嫌がる者はもちろんいる中でヒメにとってピオニーに仕えることは全く苦ではなく楽しかった。
だと言うのに、ピオニーから昨日言われた一言に今まで自分が培ってきたモノを手放してサボってしまいたい、と思うほどに彼女は落胆していた。
ネフリーを想い続ける主に、自分と気持ちが通う事はなくともそれでもいい。と叶わぬ恋で自分が独身で生涯を終える事になったとしても辛くはなかった。
自分の幸せはピオニーの傍付きであり続ける事、そしてピオニーが幸せになるのを見届ける事。
離れる事は考えたことも、考えたくもなかった。ヒメがそう思っている様に、ピオニーも自分を傍付きとして手放したくない。と少しでも想っていてもらえてると思っていた。
しかし想い焦がれる主から出た言葉は、自分の幼馴染との婚約の話だった。
事実上それは自分の元から離れて行けと言われているようで酷く悲しかった。

考えれば考えるほど眠気は消え去り、目から涙が込み上げた。
鏡を見ずとも自分の顔が酷い状態なのはわかる、休みを申し出る時に顔を合わせたメイド長が酷く自分を心配している事で察しがついた。
今まで献身的に働いて来たのだ、明日も休んでしまおうか。と考えた瞬間にピオニーの顔が浮かんだ。
一日顔を見ないだけで不安になるのだ、それほどまでに16年は重い。
やはり明日はまた仕事へ出よう、無礼な事を言い放ってしまった事を詫びよう。と思い、靄のかかった気持ちを払拭すべく顔を洗おうとベッドから降りようとしたときだった、扉が叩かれた。
今日は一日何も口にしていない私を見かねて女中仲間の誰かが様子を見に来てくれたのだろうか、とすぐに返事をした。
ゆっくりと扉は開かれて、そこにいたのは女中仲間ではなく昨日の夕刻から顔を合わせていないピオニーが少し忍びなさそうに立っていた。

「よう」
「…ピ、ピオニー様!?」

自分の部屋に来るはずのない人物が扉を開けた事に驚き、心臓と身体が同時に跳ねる。
自分は今日は顔も洗っていなく、無論化粧もしておらず、ラフな部屋着のままだ。
ピオニーと自分の姿を交互に見てベッドから出かけた自分の姿に小さく悲鳴を上げて慌ててベッドの中へ逃げ込んだ。

「そう慌てるな…入っても良いか?ここではどうも視線が痛い。」

一女中の部屋に陛下直々に訪れるとは何事か。と廊下の方は少し騒がしい。先ほどからピオニーが忍びなさそうに立っていたのは言うまでもなくその所為で、少しだけ布団から顔を出してヒメはピオニーを部屋へ通した。
女中の部屋に初めて入ったのだろう、ピオニーは少しだけあたりを見渡してすぐに視線でヒメを捉えた。
部屋に通してしまった以上会話をせざる終えない、と顔を半分だけ布団から出してピオニーが近づいて来るのを見ていた。
生憎部屋には特に来客者を持て成せるようなモノはなく、窓際に小さなテーブルと椅子はあるがピオニーはそれに見向きもせずにヒメが隠れるベッドの端に腰掛けた。

「…申し訳ありません、何もお構いできるモノは…それにこのような格好で…」
「気にするな。俺はヒメを心配して来ただけなのだから」
「恐れ多い事をおっしゃいますね…」
「そう気にするな、お前とは付き合いが長い。心配して当然だろう。それに伝えたい事もあってな」

言いづらそうに笑うピオニーに心なしかヒメはほっとし、気にかけてくれたのか。と少し胸の辺りが熱くなった。
しかし主は一体何を伝えに来たと言うのだろうか。昨日の話の続きだろうか。ヒメの顔がどんどん険しくなって行くのをピオニーは見逃さず、眉間に寄った皺を指の腹で撫で解した。

「そう難しい顔をするな…。昨日は…悪かった。お前が俺の傍にいたいと何度も聞いて来たのに蔑ろにした。」
「!!」

ピオニーから放たれた言葉は謝罪の言葉で、自分を咎める事も何もなく少し頭を下げる所作を見た瞬間にヒメは酷く慌てた。
自分こそピオニー自らが発案した本来ならば”有り難い婚約話”を全否定し、ピオニー自体も見損なった、何故私の気持ちに気づいてくれない。と言うような発言をしたはずなのだ。
主の顔を見て謝罪を聞き自分が昨日言い放った言葉を紐解けば無礼なのは自分なのだ。
それなのに頭を下げる主に自分の不甲斐なさを恥じた。

「申し訳ありません…お顔を上げて下さいませ…私こそ無礼な事をしてしまったと言うのに…
それに今日は無断で休んでしまいました」
「ヒメ、お前は悪くない。それに誰にだってサボりたくなる日はあるだろう?お前が来ない事に驚いたのは確かだが…」
「自ら出過ぎた真似をした癖にピオニー様に合わす顔がない。と思ってしまいましたの…」

素直に告げれば、気にしなくてもいい、俺とお前の仲だろう。と笑ったピオニーを見て目に涙が滲んだ。

「まあ今日は休め、明日からは来てもらわないと困るがな」
「はい…」
「お前入れる茶がないと仕事が手に付かないんだ」

ピオニーのその一言にヒメは涙した。昨日から散々泣いたと言うのにまだ出るのか。と半ば自分に飽きれ、急に泣き出したヒメにピオニーはぎょっとした。
これ以上困らせる訳には行かない、と顔を布団で隠すとピオニーは慌てながらもヒメの頭に優しく触れた。
ここにメイド長や女中仲間が入って来てしまったら大事になってしまうだろう。と思いつつもソレを受け入れて必死に涙を止めんとするが今は止まりそうにもない。

「明日は朝一番にとびきりのやつを頼むぞ」
「承知、致しました…」

その後2人には会話はなく、ピオニーはヒメが落ち着くまで頭を撫で続けた。
優しく触れるピオニーにヒメはこの時初めて自分と同じ気持ちで焦がれてくれたらいいのに。と欲張りな感情を芽生えさせた。
そのままらしくもない感情を抱えて泣きつかれて眠ってしまった。


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