平々凡々、雨模様


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「へっ、落ちこぼれめ!」

 ばしゃん、と冷たい水が頭の上から被せられた。ガランと耳障りな音を立てて転がるブリキのバケツを一瞥し、正面を見る。この道の先にある荘厳な門の先が、自分の生まれ育ったアディントン家の屋敷だ。ゲートを出て今から帰るはずだったのだが、隣人のささやかなイタズラで突如制服はずぶ濡れになった。少々帰宅予定を遅らせなければなるまいと思いながら、ローマン・アディントンはその場を無表情で後にする。後ろで姿を見せない隣人が、つまらなさそうにケッ、と悪態をつくのが僅かに聞こえた。
 別に落ちこぼれではないという自負はある。周りが才能ある者ばかりだから、相対的に落ちこぼれに見えるだけで――というのは単なる自己弁護。現実問題として落ちこぼれと称される事実は変わらない。そしてなんとも面倒なことに、人間とはいっときの負の感情に左右され、自分と違う者を攻撃する習性を持っている。その習性を果てしなく面倒だと思うようになったのは、この学校に入ってからだ。色々と気にするだけ時間の無駄だが、物理的に来られると面倒だ。相談するようなことでもないため放置している。痛みなどという一時的に治まるものを、さして重大でもないのに他人に言いふらす意味などない。下手に反応を見せれば相手に餌をやるようなものだから、何もしないのが吉だ。

 確かに、周りより野心は限りなく薄い。魔法学校に入学したものの、その中でのし上がろうとは夢にも思わなかった。普通クラスで、魔術師の資格取得を目指す中で、ただ自分の学びたいことに取り組み、それを極められれば、十分に満たされる程度の意欲。世間で言う、無欲とはまた少し違う。欲のベクトルが、周囲とは違う方向に向いているだけなのだ。
 気の合う学友がいて、溢れる程の知識を詰め込むことができるこの環境を自分はかなり気に入っていたように思う。それ以上を望むことなど、無かったのだから。だが両親は、嫌気が差すくらいにはそんな俺に苛立ちを募らせていたらしい。普段は気にしていなかったが、家に成績を持って帰るたびに感じる刺すような雰囲気は嫌でも肌に纏わり付く。
 成績を持って帰るときにだけ、俺は実家の門を潜る。たった一日だけのことなのに、それすら億劫に感じてしまうから、人心とは不思議なものだ。今日は濡れた制服の分だけ、足取りが重かった。

 空気の重たい食卓の席で、わざとらしくため息をつかれるのは俺だけ。隣に座っている弟はまた見事な成績なのだろう。昔から弟は優秀だ、平凡な俺なんて才能で追い越してしまう。
 成績表を眺める父親は、相も変わらず渋い顔だ。その原因は自分の"やる気のなさ"に他ならないのだろう。

「…ローマン。また、成績は奮わないのか。」
「悪くはないと、思いますが。」

 そう、昔から成績は悪くない。そう自負できるくらいの努力はしているつもりだ。ただ、悪くもなければ良くもないのが現状である。つまりは平々凡々、これは昔からどうにもならないのだ。だがそれでは両親は納得しない。この人たちにとって、結果が出なければ努力も好奇心も無意味と同義なのだ。

「それでは駄目だと言っているだろう。お前はこの家を継ぐのだから、こんなもので満足してもらっては困る。」
「父様の言う満足は頂点でしょう。違いますか?」
「無論だ。お前にはこのアディントン家を継いで、更に発展させる義務がある。それしきの力では発展は愚か維持すら望めまい。」

 机の上に放り投げられる紙の束。俺の人生はこの紙切れ数枚で評価される。素行は良いつもりだが、魔術は普通、才能も平凡。それがローマン・アディントンという生徒のステータスだ。何一つ秀でたところなどない。
 普段の自分なら、反論も面倒だとここで黙っただろう。だが今日の自分は少し気が立っていた。家長を目の前に出来るだけ冷静に、つとめて冷静に声を発した。

「お言葉ですが、俺ではいつまで経ってもそこにはたどり着きませんよ。」
「…なんだと?」
「目指しているのは上ではないので。俺は探求ができればそれで良いんです。出世なんかに興味はありません。」

 バチン、と重い音が頬の上で弾けた。顔を上気させた父親が、腕を伸ばして自分の頬を殴ったのだと認識したのは、脳に沁みるような痛みが伝達された直後だった。じわじわと皮膚の上に熱が広がってゆく。まるで今の自分が抱く、どろどろとした感情のように不愉快で、不可解な痛みだ。

「この家に育っておきながら、ぬけぬけと何を言う。」
「思ったことを言ったまでです。出世は才能溢れた、野心溢れたお方がやれば良いではないですか。」
「この…!」

 がっと胸倉を掴まれて首が締まった。少しの息苦しさに眉間に皺が寄る。野心家ばかりの家に育っておきながら、こればかりは本当に分からない。何故出世にそこまで盲目的なのだろうかと。それは分からないが、この男性は反抗的な目をした息子が気にいらないのだろうということだけは分かる。

「……それ程までに道を外れたいのなら、もう止めはせん。
家督を継ぐ気がないのなら、この家から出ていけ!」

 放り捨てるように手を離され、椅子ごと後ろに倒れ込んだ。咄嗟についた肘を打ってしまったのか、鈍い痛みが広がった。
 足音も荒く家長が去り、しんと静まり帰った部屋には少しの煙草の匂いが残っていた。いつの間にか母親も、弟も、使用人すら姿を消していた。まぁ、確かに反応はしづらいだろうし仕方あるまい。そう理解するのは、簡単だった。
 何故だかひどく寒気がする。髪の乾かし方が甘かったか、それともこの部屋の空気が寒々としているからか。とにかく、温まりたかった。打った腕を庇いながら立ち上がり、階段を上り、年に何回も帰ってこない自室のドアを静かに開けた。磨かれた窓から月明かりが差し込んで、シミ一つないシーツの敷かれたベッドに銀の四角を描いている。四角の上に倒れ込んで、手を伸ばして掴んだ羽毛布団に包まっても、寒気は治まらなかった。頭まで布団を被り、丸くなると、自分の息で少しは温かく思える。

痛みで冴えてしまった頭は、延々と同じことばかりを繰り返し、繰り返し考えていた。
 普通であることは、良くないことなのかと。
 辞書をいくら引っ張っても、普通、という言葉が負の意味で載っていることはない。言葉の定義から言えば、"普通の人間"に害などないはずなのだ。なのに、どうして、あの人は自分を、あんな目で見るのだろう。

 あの、煩わしいものを見るような目は、何なのだろう。

 そんなことを考えていたから、ぼたりと沈みこむように意識を失ったことも気づかないままだったのかもしれない。青年はいつの間にか、夢を伴わない深い深い眠りに堕ちていた。


――


 目が覚めた。泥沼から抜け出すように、必要以上に時間をかけてベッドから這い出し、時計を確認する。9時20分。完全に授業には遅刻の時間だった。
 まるで鈍器で殴られ続けているような頭痛が止まない。乱れた髪を直す気力もなく鏡を見ると、少し青白い左の頬は紫色に腫れ上がっていた。目の下には薄く隈が浮いてさえいる。そういえば、あのあと氷も当てずに寝てしまったのだった。当然の結果だろうが、なんともみっともない顔である。ため息を零す気力も今はなかった。

 その後は、あまりよく覚えていない。おそらく機械的に制服に着替え、タイの歪みも気にせず、少し汚れたショートブーツをつっかけて、寮から持って出た荷物をそのまま持って家を出たのだろう。両親は出かけ、弟も学校に戻った家の中は空気が重くて、耐えられなかった。授業に出る気力はないのに、寮にではなく学舎の方へ脚が向いたのはそのせいだろう。
 気がつけば、中庭にいた。ざあざあと噴水から流れ落ちる水の音を右から左に流しながら、ただただ息をしていた。普段は友人とよく駄弁る場にしている此処に自然と足が向いたのは、何故だろうか。無意識に、誰かの声を求めていたのかもしれない。自分じゃない、他の誰かの声を。

「ロマン?」

 ふと背後からかかった声。何故か水中を通したように聞こえた声に振り向かないまま、ただのろのろと顔だけを上げた。

「テメェが授業サボるなんて珍しいこともあるモンだなぁ。もう昼だぜ。」
「………フラウ、」

 壊れたゼンマイ人形のように、ぎこちなく首をそちらへ向ける。かけられた声の正体は、友人のフラウだ。それはもちろん分かっているのに、おはようだとか、サボりの言い訳だとか、そういう言葉が一切口から出てこなかった。抱いた一つの言葉以外を、全て消される魔術にでもかけられたみたいに。
 少し霞んだ視界の向こうで、友人の驚いたような顔が見えた気がする。

「…お前、顔どうした。なんかあったか。」
「ねぇ、フラウ。」

 喋ると、腫れた頬が痛む。友人の声が、バケツに放り込んだ鉄球の音のようにガンガンと脳内に木霊する。友人の声を遮って開いた口は、掠れた息ばかり零して消える。なんで、どうして、声が出ない。フラウは怪訝そうな顔をしながら、それでも口を差し挟まず待ってくれている。口を開いたまま慌てて数度息を吐き出すと、ひきつったような息と共に、ずっと抑えて吸い込んで、肺の中に溜め込んでいた問いが、はじめてぽろりと零れ落ちた。

「普通って、そんなに駄目なことなのかな。」

 自分の口元は、歪んだ三日月を描ていたように、思う。次の瞬間、バツッとテレビが消えるような音がして、浮遊感と共に視界が暗くなる。

 耳鳴りは、最後まで止まなかった。


――


「ロマン?…おい、ロマン。」
「……うん…?」

 ぬるま湯の中を浮上するように、ゆっくりと意識が覚醒していく。肩を叩かれ、揺り起こされる感覚。寝ぼけ眼で声の主を探すと、見慣れた桃色の髪が寝起きの目に飛び込んできた。

「…あれ、……フラウ…?」
「ったくこんなとこで寝てんじゃねぇよ。書類にココア零したらどうすんだ。」

 どうやら少しだけ休憩しようとホットチョコレートを淹れたはいいが、全く飲まずに机の上に臥せて寝てしまったらしい。寝たというより意識がいきなり途切れたに近い感覚だが。まるで映像がブツンと途切れたときのように。

「あぁ……ごめん。…ちょっと、疲れて。」
「謝る前に寝ろよテメェ。ほら行った行った。」

 しかめ面をした友人に追い払うように手を振られ、内心苦笑しながら冷えたマグカップを持って席を立った。乱れてしまった髪を解きながら、二十年来の友人の方へと振り向く。

「…ありがと。」
「おうよ。」

 先程の、意識が途切れていた間に見ていた、夢。そこに、友人に似た人が出てきた気がしたのだけれど。
 結局口にすることはできずに、ローマン・アディントンは仮眠室へと向かったのであった。


*


猫田さん宅フラウ・ミンゴレッドさん
お借りしました。
都合が悪い場合パラレルとして扱ってくださいませ。



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