メロンドロップ
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ただ気が向いただけだった。その日は昼の遅い時間に授業があったから、無人の静かな教室で一休みするのも悪くないだろうと。太陽が傾いてしばらく経った頃の学舎のとある場所で、次に使われる教室にほんの気まぐれで足を向けた青年がいた。
ガラリと引き戸を開けると、教室に差し込んでいる橙色の日光が、教室の中を明と暗のくっきりした二色に塗り分けていた。日光が明るく塗りつぶしている教室の前方は眩しかろうと、静かで暗い後方に移動する。適当に目についた椅子に腰かけ、少し睡魔にやられかけている瞼を大人しく閉じようとすると――すぐ横から、声が飛んできた。
「あれ、こんな早くに珍しい。」
「あ"!?」
思わず身を引いてしまった。驚いたからではない、声を聞くまであまりにも気配がしなかったからだ。座った席の隣に偶然人がいたらしいことは一瞬で理解したが、ここまで近づいても気配がしない人間などいること自体が驚きだ。気配遮断の魔術を使われていたかと思うくらいに。
横の席に座っていたのは、ヴァニラ色の髪の青年。先程戸を開けた時に起きたのか、少し眠そうな目をしていた。ふあ、と小さな欠伸をしながらこちらを無表情に見つめる青年に、思わず動揺したような声が出てしまう。
「てってめぇいつからッ」
「…30分くらい前からいたよ、俺。次の授業ここだから、ちょっと一休み。」
横に最初からいたというそいつは、ふわふわとした髪を撫でつけながら答えた。どうも見覚えがあるようなないような、そんなもやもやとした雰囲気を目の前の奴は纏っている。この授業にいるということは、年齢はそれなりに近いのだろうからどこかで見かけていそうなものなのに、思い出せそうで思い出せない不思議な雰囲気だ。
「驚いた?ごめんね、俺、凡人だから。」
「別に驚いちゃいねぇよ!ていうか凡人だから驚くって何だよその理論。」
金髪のそいつの言葉に被せるように言葉を発すとそいつは黙った。かと思えば、目の前にずいと何かを差し出してくる。綺麗に整えられた爪のついた指先がつまんでいたのは、銀紙に包まれた小さな立方体。印字されている文字は、そこそこ名の知れた製菓メーカーのものだった。
「食べる?」
「……おう。」
まともに会話して数分だが、こいつのペースに巻き込まれかけている。受け取った立方体の銀紙を剥がして口に放り込むと、香ばしい苦みと甘ったるさが広がった。チョコレートだ。隣の奴もまた、新しく取り出したチョコレートを口に含んでいる。食べ方がハムスターみたいだという印象を受けるのは、片頬を膨らませているからか。等とどうでもよいことをつらつら考えながら、口内で溶けていくカカオと砂糖の塊を舌先で転がしていた。橙色の日光の筋は、入ってきた頃より少し移動していた。
しばらくの無言が続く。それを唐突破ったのはまたこいつだった。
「ローマン・アディントン。」
「あ?」
「俺の名前。君の名前も、教えてよ。」
視線を横に滑らせると、メロンドロップのような双眸がこちらをじっと見据えていた。飴はストロベリー派だが、口に収まるのなら正直何でも構わない。…ではない。飴の話ではなく。まともに言葉を交わして数十分、それだけの人間なのだから、答える義理はなかったのかもしれない。この先会話を交わすかどうかだってもちろん不明瞭だ。なのに何故だか、名乗らない気が起きなかったのだ。
「…フラウ・ミンゴレッドだ。」
チョコの芳香が残る息に乗せてそう名乗ると、何故か青年―ローマンは嬉しそうに少し、笑った。
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猫田さん宅フラウ・ミンゴレッドさんをお借りしました。
妄想甚だしいので、都合が悪い場合パラレルとして扱ってくださいませ。