濁った琥珀


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「君、喧嘩でもしたのかね?」
「えっ?」

 からかうような声色を聞いて振り向けば、突き抜ける夏の青空のように眩しい瞳がこちらを見て笑っていた。
 喧嘩などここ最近した覚えもないが故、間の抜けた返答をすると、こちらを見つめて笑う瞳の持ち主――ノルディックが、指を伸ばして自分の頬の1点をつついた。

「ここだ。痣のようなものがあるが?」
「えっ…あ、本当ですね。気が付かなかったですけれど…喧嘩はしていないですよ?」

 わたわたと手鏡を取り出して確認すれば、確かに黒いシミのような、痣のようなものが出来ていた。擦ってもシミは取れないので、そばかすの一種だろうか、と呑気に思いながらノルディックに弁明をする。面白そうに肩を揺らした彼女は、なら良い、と笑って手を振った。

 その時は、まだ知る由もなかった。一体これが、何であるのかを。


――


 シミを確認して、三日ほど経ったある昼下がりのこと。今日も今日とて宮廷劇作家のエリックは、次の上映に向けて脚本の制作に勤しんでいた。稀にサンドイッチを片手で食べる以外は、ほとんど飲まず食わずで机に貼りついてしまうのが執筆時の常で、今回もそれは例外ではなかった。
 一度作業を切りの良いところまで終え、ペンを置いて大きく伸びをする。固まっていた肩がほぐれたところで、カレンダーの日付を見ると、そこには小さく丸がついていた。
 そういえば今日は、魔術師の親睦会という名のティータイムが宮廷の一室で催されるのだ。執筆中に着ているのは白いシャツに、サスペンダーで吊ったズボンという簡素な部屋着。さすがにこのままの服装で茶会に出るわけにもいかない、着替えなくては…と、エリックは椅子から立ち上がった。

 否、立ち上がったはずだった。

 立ち上がった瞬間、視界がぐわんと動いた。足元がいうことを聞かず、まるで両足をすくわれたかのようにエリックはひっくり返った。柔らかな絨毯の上に叩きつけられ、その小柄な体を床の上に横たえる。体中が、痛い。そして、まるで熱湯の中に放り込まれたように、溶岩で焼かれるように身体がかっと熱くなった。熱くて、暑くて、まるで脳が融けてしまったようで、何も考えられない。一体何が起きたのか、と疑問を抱く余裕すら無かった。
 熱い息が開いた口から零れる。息を吸うことすら苦しくて、声なんてとても出せなかった。身体は燃えるように熱いのに、背筋には悪寒が走る。嗚呼、なんてことだろう。茶会の日に体調を崩すなんて、英国紳士が鼻で笑うに違いない。

「エリック君?留守かね?」

 ふと、彼女の声が聞こえた気がした。何故だ?そうか、中々茶会に現れない僕にしびれを切らして呼びに来たに違いない。熱を帯びて震える手で、机から垂れる長いテーブルクロスを掴んで引っ張ると、その上に乗っていたマグカップが転がり落ちた。落ちた先は絨毯だから割れはしないが、落ちた時の鈍い音で存在を気づかせるのには十分だろう。カモミールのハーブティーは飲みかけだったか、それとも全部飲み干してしまったかは最早覚えていなかった。

「居留守かね?…いるんだろう?入るぞ。」

 彼女の声が再びかかり、鍵をかけていなかった部屋のドアが開けられた。ぼんやりとした視界に映る檸檬色の長い髪。あの眩しい瞳は、視界に黒い靄がかかったようで見えなくて。

「――エリック!?どうしたんだね、しっかりしたまえ!!っ、酷い熱じゃないか…!」

 茶会だからか、いつもよりも少しだけ装飾の多い服を着たノルディックの素っ頓狂な声が耳に届いた。それを聞いた時、ひどい安心感に苛まれ、一気に視界が暗くなった。それで余計に、じりじりと焼かれるような体の熱を実感する。抱き起されるのを感じながら瞳を閉じて、エリックは浮遊する意識を手放した。

 彼は知らなかった。
鏡を見ずにいた三日間。その間に、あの小さなシミのような痣が、不気味な文様を頬の上に描いていたことを。
 それはまさしく、彼にかけられた呪いそのものだったのだ。


――


 ふと、意識が浮上する。閉じていた瞳を開くが、開いても閉じても、真っ暗闇であることに変わりはなかった。一寸の光も差し込んでこないということは、今は深夜なのだろうか。
 先程まで、体中が痛くて、脳が融解しそうなくらい体が熱かったはずだった。ノルディックの声を聞いたのを最後に意識が途切れ、今まで自分は眠っていたらしい。周囲を見回したが、やはり真っ暗だ。背に感じる感覚は、ベッドのマットレスだろうか。

 昔、パレードで登壇した時に、狙いを外したスナイパーに撃たれたことがある。その時は目が覚めても誰もおらず、状況を飲み込むのが遅れてしまったことを覚えている。はてさて今回もそうなのだろうかと、少し不貞腐れて横を向いた。すると、

「……っ!!」

 息を飲んで口ごもったような音がかすかに聞こえた。どうやら自分の寝ているベッドの横に、誰かがいるらしい。どなたですかと声をかける前に、その人物は自ら声を発した。

「…きみ、めが、」

声でわかる。自分を見つけてくれた彼女だ。また今回も世話をかけてしまったなと、胸中で一人ごちて苦笑する。そのまま横にいるであろう彼女に向かって、言葉を投げかけた。ただその震えたような、幽かに絶望を含んだような声色が、耳に引っかかった。め…目、だろうか。自分の目がどうしたというのだろう?そもそもこの真っ暗闇では、互いの目の色さえ判別不可能だというのに、彼女は何を言っているのだろう。

「ノルさん…?ええと、どちらに?もしかして、お加減が悪いのですか?…それに、部屋が真っ暗ですね…ひとまず灯りをつけないと、っ!?」

 声の聞こえた方向に、起き上がりながら手を伸ばす。墨を流したように真っ暗な中では、近くにいる人一人を見つけるのもこれほど難しいのか―と、何にも触れられずあえなく空を切った利き手の感触を感じながら考えていた刹那、突然手を握られた。そのまま引き寄せられ、強く抱き締められる。困惑していると、薄いネグリジェを着た自分の肩に、温かい雫が滴り落ちた。これは、涙か。なぜ彼女は、僕を抱き締めて泣いているのだろう?

「……ノルさん…?あの、」
「なぜだ!!なぜ、どうしてこの人が!!」

 抱き締められて密着した体から、しんと心の奥が冷えるような感情が流れ込んでいる気がした。彼女は一層腕の力を強め、喉の奥から絞り出したような声で泣く。
嗚呼、どうか泣かないで。そう言いたかった。けれど、どうしても口がその言葉を紡いでくれないのは、いったいなぜなのだろう。

 けれど、一つだけわかることがある。
――僕はまた、貴女を泣かせてしまったのですね。


*

伊勢エヴィさん宅ノルディックさんをお借りしました。
これはパラレルだ。



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