絆創膏では覆えない傷口


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 駆けた。
 行き先など分からないけれど、自分に課せられた役割はそれだった。知らせること、そしてそれまで、捕まってはならないこと。それが、「あたしがやらなければいけないこと」だ。

 入り組んだ路地裏を勢いで抜けようとして、直前で踏み止まる。向こうは拓けた場所だ。外に白衣が居ないかどうかを確かめてから抜けねばなるまい。赤信号は渡ってはいけない、それが世界のルールであるのと同じように。そっと外を覗くと、案の定白衣が一人、いた。遠くをきょろきょろと眺めていて、どうやらこちらには気づいていないようだ。遠目から見ても大型の武器などは所持しているようには見えない。これなら比較的、やり過ごすのも容易かもしれない。そうやって目先のことばかりを考えていたことが仇になったのだろうか。
 先程から走り通しで、切れた息はかすかに血の味がする。一度ここで休憩をしておこう。そう思って、路地の汚い壁に手を着いた――瞬間、左腕に痛みが走った。細いロープのようなものが、食い込む勢いで自分の腕に巻き付いてきていたのだ。思わず後ずさると、更にロープが腕に食い込む。直感した。これは、捕縛罠だ。一度ロープが千切れているところを見ると、一度誰かが掛かったのかも知れない。

「ッう…!」

 思わず声を上げそうになって、唇を噛んだ。外にいる白衣に聞かれることを恐れて、痛む場所を抱き込んで背を丸める。一度罠を確認した形跡があるから、流石に二度も来るはずはあるまい。そう思っていても、それは確定要素ではない。それが余計に恐怖と焦りを増長させる。らしくない、しっかりしろと吐息のようにお呪いを呟く唇は、かすかに震えていた。近づいてくる足音が、怖い。その感情を認めてしまった今、あまりにも大きすぎるそれを放り捨てることは彼女には出来なかった。
 足音は暫く周辺を彷徨いて、そして遠ざかった。それを確認し、ゆっくりとロープを解きにかかる。巻き付かれたために腕は鬱血していたし、ロープが強く食い込んでいた場所からは赤が垂れていた。自分の嫌いな、頭上から全てを見下ろすこの世界の空と同じ色だ。その色を黒い制服で隠し、立ち上がる。手当より何より、この場所を移動したかった。そっと路地裏から頭を突き出して、左右と前を確認する。そうして安全を確認し、再び駆け出そうとして――

「山崎春乃くんだね?一緒に来てもらうよ」

 横から掛かった男の声に、全身の血が泡立つような感覚が襲った。こいつ、最初から気づいて待ち伏せていたのか――!
 その白衣の片手に注射器。もう片手は自分に伸ばされていた。腕を掴まれたら最後、終わりだ。そう確信めいた思いがどこかにあった。咄嗟に片手に握っていた鉄パイプをその注射器に向けて振り抜くと、そのおぞましい機器は白衣の手を離れて転がっていった。白衣の意識が一瞬自分から逸れた瞬間、それを見逃してはならない。
 白衣の男に突進し、その懐に一気に飛び込む。呼吸を合わせろ、そして容赦をするな――と脳内で反駁して、その片腕を掴んだ。その勢いのまま男の身体を思い切り背から瓦礫の上に放り投げる。バァン、と柔道場の床より濁った、それでいてかなり大きな音が響いた。

「い"っ…!!」

 男は狙い通り地面の上に背から転がり、口から悲鳴と空気を吐き出した。柔術というものは、受け身が取れないとかなりのダメージが体に来てしまう。故に柔道初心者は、まず受け身を叩き込まれるのだろう。
 派手に音を出してしまっては、尚更ここに留まっているわけにもいかない。春乃は転がった鉄パイプを掴むと、白衣の男を投げっぱなしでその場を後にした。それはもう、脱兎のような速さで。


――


 先程よりもずっと早く息が切れ、休憩をせざるをえなくなった。ダンボールの積まれた路地裏に、ダンボールに埋もれるように、隠れて腰を下ろす。息を潜めて、呼吸と痙攣した筋肉を落ち着かせようとした。上がっていた体温がだんだんと冷えてくると、腕の傷の痛みを今更のように思い出した。
 袖を捲ると、傷の鬱血が更に酷くなっている。血は止まりかけていたものの量自体が多かったらしく、結構血まみれである。傷自体はそこまで深くないから、大袈裟にも見えてしまう。だが痛みだけは一丁前だった。
 包帯は使ってしまった、手当をする道具なんて……と思っていた時、ポケットに手を突っ込むとそこに固い感触があった。引き出してみると、絆創膏の絵が描かれた小さな箱が手の中に一つ。先程逃げてくる時にぶつかった背の高い男性からもらった、読めない文字の書かれた応急手当道具だった。箱を開けると、東京のものと同じようにちょうどいいサイズの絆創膏が10枚入っていた。ありがたく使わせてもらおう。そう思って使えば、一気に半分以上減ってしまった。

 先程からずっと、胸が痛い。いや、それはもっと前からだと直感的に分かっていた。皮膚の内側で燻っていた血が、噴き出したような感覚なのだ。
 理性と感情が、言い争うことをやめない。終わらない論争に、耳鳴りがやまない。置いてきた後悔、何も出来なかったやるせなさ。この世界では無力な少女は、自分でも気づかぬうちにそれに蝕まれていた。それはどんなに長い包帯でも覆い隠せない痣。どんなに大きな絆創膏でも、覆いきれない傷口となっていた。

 その傷口を泥に晒してでも、少女は走らなければならない。
 その痣の上に更に痣を重ねても、少女には伝えなければいけないことがある。
 俯いている暇はない、前を向け。例えどれだけ感情が爆発しようとも。隠せないなら、全て呑み込んで、走れ。ただ、走れ。

「もう少し待ってて、峯言」

 置いていきっぱなしになんて、絶対にしないから。


*


お名前のみ
レゴさん宅浅葱峯言くん

お借りしました。都合が悪い場合パラレルとしてお取り扱いください。



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