午前二時の虫の知らせ


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 人々が寝静まった夜更け。ここは、虹の都アルカンシエルのとある住宅の一棟だ。道路をことごとく冠水させた謎の水が、風でさざ波を立てている以外の音はほぼ聞こえない真夜中である。
 小さな部屋の中で、時折その頬をぱんっと叩きながら分厚い書物に没頭する少女がいた。その部屋の中を照らすのは、机の上に置かれた小さな灯りだけ。休みなく書き綴られていく言葉は、この国を象徴するもので。分厚い眼鏡の奥の目を眠気に潤ませながらひたすらに文字を書き記し何時間経っただろうかという頃、突然彼女の家の電話がけたたましく鳴り響いた。はっと脳が覚醒し、反射的に電話を取る。先程までの眠気の余韻が残る、鼻にかかった声で少女は電話口の誰かに答えた。

「――Allo?」
「Allo, 眠らない眠り姫。星がきれいな夜だね、セーラ?」
「どうも〜、あなたの大好きなセーラちゃんだよ。……どしたのイサク、今真夜中なんだけど」

 電話口の朗らかな声の正体は、長らく会っていない従兄のもの。滅多に電話などしてこないのに、決まって自分が夜更かしをしている日に電話をかけてくるのがこの従兄のイサクだった。自分は彼に輪をかけて親族へ電話などしないため、自分が言う筋合いもないのだが。
 電話の向こう、ドーヴァー海峡を隔てたブリテンにいるはずの彼は、へらへらと笑って言葉を続けた。寂しがりやの彼は、きっとまだ夜遊びをやめてはいないのだろう。いつか刺されやしないかと最初は思っていたが、セーラからはもう積極的に咎める気も失せていた。

「悪い、ちょっとね。明日から長期遠征でさ、そっちに調査で寄るかもしれないから。それだけ」
「お〜やまぁ、わざわざそれ言いに国際電話かけたの?律儀なことで。風邪と女に気をつけなよ」

 ブリテンの財団員が来郷する可能性は、世界の状況を鑑みればすぐにわかることだ。嘘でも頭が悪いとは言われないセーラにも、それはもちろん分かっていた。しかし従兄の気遣いを払いのけるほど冷酷な人間でもない彼女は、敢えてそう答えた。それを分かっているのかいないのか、相変わらず読めない飄々とした声が電話口の向こうでからからと笑う。

「ちゃんと気を付けるさ、Merci. それじゃあ――」
「――ちょ〜っと待った。あと一つ言うことあった」

 普段なら、従兄が話を切り上げようとするのをセーラは遮ることがない。それは立場が反対であれ同じことだった。しかし今、少女は背筋に感じる僅かな予感と共に、不意に一つの約束を思い出したのだった。遥か昔、従兄に出会ったばかりの頃、彼の父親――要するに、叔父に言われた言葉を、だ。彼もまた、今の自分と同じように、錬金術師だった。

「君が?オレに?」
「なぁに、明日は槍が降るのか、みたいな声出すのやめてくれる〜?」
「そうは言っていないよ。で、何だい?」

 驚いたような従兄の声に、茶化すような言葉を続け、少女は少し冷たい夜の空気を吸い込んだ。

「『Fleurs fraîches』。この言葉が、きっとあなたを護るよ。――叔父さんからの伝言だ」
「は?なんて?……待って、叔父さんって、」
「意味は自分で調べることだね。それじゃ、おやすみ」

 言いたいだけ言うと、従兄の言葉を最後まで聞かずにセーラは受話器を置いた。そのまま本を閉じ、雑多に散らかった机の上のものを適当に仕事鞄に突っ込むと、卓上の灯りを消してベッドに潜り込む。少し古ぼけた匂いのする掛け布団が自分の息で温まるのを感じながら、思いを巡らせた。

 「Fleurs fraîches」。幼いセーラに、ブリテンへ向けて出航する船の停まった波止場を背にした叔父が教え込んだ言葉だ。そしてもし、嫌な予感がしたなら、これをイサクに教えてやってくれと、そう付け加えた叔父の声は、もう覚えていない。その顔さえ、写真を見なければ思い出せないほどに記憶は掠れている。けれども、その時言われた言葉は、記憶にこびりついて消えることはなかった。この20年間ずっと。

 その言葉がどんな意味を持つのか。時を経て、叔父と同じ立場になったセーラには、奇しくも理解できていたのである。


「――世界くらい軽く救ってきちゃいなよ、僕のナイトを名乗るんなら」



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