灰色の男
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荒川ビル。普段なら事件でも起きない限り人が近づきたがりはしない風貌の違法建築ビルディング。ごみごみした通りを抜け、コンクリートが打ちっぱなしの灰色の塊の中の階段を上がって四階分。灰色の少し古びたドアの向こうでは、二人の男が声を抑えて話をしていた。
扉に提げられたプレートに記された名は「天灰探偵事務所」。名は体を表さない暖色の家具の多い部屋が、その扉の向こうにはある。ローテーブルを真ん中に挟んで、ソファに座り向かい合う二人の男は、どう見ても住む世界が違うと思わざるをえない風貌をしていた。特高の制服を着崩し、上衣を肩にかけた青年は、膨らんだ茶封筒を無表情に対面している男に向かって滑らせた。黒髪の男はその中身を弐、三度吟味し、ようやくと言ったように口を開いた。
「さて、旦那が探してる例の事件の奴だがね。流石に自分の生まれた頃の話は調べんのに苦労したなぁ。何とかいうアイドルが全盛期だった頃の話だろ?結構昔だよ」
「世間話はいい。あんたは一体何を見つけたんだ」
「ははっ、旦那のご期待に添えたかは分からんけどな?――とりあえず、だ。例の事件、どうにも病院か、はたまた特高からの圧力からは知らねぇが隠蔽がされてる様でな。内部関係者でも見せられねぇものがあるんだとさ」
「……隠蔽工作…。あの事件の何に禁句があるって言うんだ」
「さあなぁ。傍から見りゃ狂気の連続殺人事件ってだけだがね。最終的に息子と相討ちになって殺されたんだっけか、犯人は」
「そうだったかな。それで?他にも何かあるんだろう?」
「目ざといね旦那。あるさ、とっておきのがな」
少し濁った蜂蜜色が、急かすように銀色を眺める。へらりとおどけて笑ってみせた黒髪は、まるで内緒話をする子供のように声を潜めた。彼が屈むと、着物に染め抜かれた麻の葉模様が、締め切られたブラインドの隙間から差し込む光に染められる。
「さっきの件、腑に落ちねぇ点が一つあってなぁ。あの件は隠蔽されてから誰かが一度、あの件を調べ直した痕跡がある」
「――何だって?」
「言葉通りの意味さね。そんでもって、それと思しき時期に一人、西大病院の関係者が不自然に消えてんのさ」
「……消されたのか?」
「おやおや、特高のお偉いさんは頭が物騒なこった。異動だ異動。そいつの名前は……おっと、こっから先は有料だ」
思い出したように、黒髪の男は口を噤む。サングラスの向こうから透けて見える銀色は、何にも染まる鉛色であり、何にも染まらぬ灰色である。特高の青年はさして嫌な顔をするでもなく、懐から黒い革財布を取り出すと、追加の紙幣を数枚男に放って寄越した。
「……続けろ」
「へいへい、毎度あり。――そいつの名前は、天羽恢悧。あ、かいりってこういう字な。今はネクタールの研究員だけどな、奴さん、元は西大病院の監察医だ。死体に関しちゃぁ、プロ中のプロの筈だ」
おそらく男の手書きであろう、癖の強い字で書かれた人物詳細が青年の目の前に押しやられた。天羽恢悧、その名に見覚えはない。ネクタールに移籍した時期がいつかは分からないが、おそらくあの事件の司法解剖を担当してはいないだろう。自分の記憶に、その名がないのだから。
追加の情報を眺める。所属はネクタールの理化学研究所。つまり教授になってから数年足らずでその職を辞し、ネクタールに移籍していることになる。監察医務院が肌に合わなかったにしては、少しばかりそれは不自然で。やはり内外から何かの圧力があったと見るべきであろうか。対象に接触しないことには何とも言えないが、黒髪の男は食えない笑みを浮かべながら、青年の思案顔を眺めていた。
「元教授は若すぎやしないかい?この年齢。天才だとしても、だ」
「その辺何が絡んでんのかは依頼に入っちゃいねぇだろ?佐藤の旦那」
「……そうだな。当面は彼を当てにするしかない。……依頼は継続してくれ」
自分が求める真実の欠片を、果たしてこの男――天羽恢悧は握っているのだろうか。
青年はその疲れ切った顔を伏せて、事務所を後にしたのだった。
「毎度ありぃ。――本当に懲りないもんだな、ヒトってのは」
重く閉まった扉の向こう、黒髪の男の薄い唇から漏らされた言葉を、聞く暇もなく。