▼ 幸せそうな
「…ああ、緋真……そんな顔を、しない…で…」
「!」
弱々しい声であたしの名前を呼ぶ乙女さん。手は震え、力もあまりないのに、彼女はあたしの手を握ってくれた。
「妾は…鯉伴様の娘を……この手で、殺してしまった…。自分が、成すことのできなかった…娘を……」
「ちが、ちがうの…!“私”は本当は…貴方も助けたかった…!」
もう我慢の限界だった。ポタポタ、と落ちるそれはあたしと乙女さんの手を濡らす。
「あの時、“私”は知ってた……知ってて、助けようとした…!でも、出来なかった…!貴方のせいじゃないって……いえ、なかった…!」
鯉伴様を庇い刺された私は、それでも乙女さんのせいじゃないって言いたかった。叫びたかった。でも、子供の体力じゃあできなくて、すごく悔しかった。目の前で、貴方の身体に狐が入っていくのを見る事しか出来なかった。
「謝るのは、私のほうなんです……!!」
ギュッと手を握るけれど、乙女さんの手はだんだんと冷たくなっていってた。乙女さんはあたしを見て、ゆるく笑ったあと、自分の傍で立っていた彼へ目を向けた。
「……鯉伴様…」
もっと顔を見させてください。
掠れた声で言った彼女の言葉は鯉伴様に届いた。何を思っているのか分からないまま、鯉伴様はゆっくりと乙女さんに近寄り、そっと彼女の頬を撫でた。
優しい手は微かに震えていた。
「ああ……鯉伴…」
「乙女…乙女…」
「…鯉伴様…?…泣いて…おられるの、ですか…?」
「っ」
その言葉にハッと鯉伴様を見て、目を瞠った。
「…馬鹿いうんじゃ、ねぇよ…」
その声は微かに震え、喘鳴が混じっていた。
「お前にもう一度会えたってのに…泣かねぇわけ…ねぇだろ…っ」
震える声を出し、くしゃりと歪めた表情。それに、あたしは何も言えず、またボロボロと涙を流すだけだった。
「…ごめん、なさい…あなた……」
何度も謝っても許されないことだと分かっている、と彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。
違うの。貴方のせいじゃないの。
「乙女さんは…悪くない、です……!」
「え……?」
驚いた顔。
あたしを見る乙女さんの顔が、あの日の嬉しそうに笑う顔と重なった。
この人を死なせたくない。
小さく息を吐いて、自分の手のひらに力を注いだ。淡い光が生まれ、彼女の傷へとそっと手をかざす。ゆっくりと癒えていく彼女の傷に、周りは息を呑んだ。
「あたしは、貴方のせいだって…思ってない…!」
「緋真……」
「……ああ、そうだな」
必死に治そうとするあたしの頭を撫でて、鯉伴様は乙女さんに笑って言った。
「緋真の言う通りだ。…俺たちは、乙女のせいだなんて思ってねぇよ」
「鯉伴…様……」
その言葉を聞いて、乙女さんはようやく笑ってくれた。そして、様子をただ見る事しか出来なかったリクオへと目を向けたのだった。
「緋真…リクオ…。もっとよく顔を見せておくれ…」
自力で起き上がったオトメさんが、あたしとリクオに手を差し伸べる。静かなまま、リクオは乙女さんのもとへと歩み寄って、膝をついてくれた。ゆっくりとあたしとリクオの頬に、彼女の指が触れた。輪郭をなぞるようにして触れる手は、冷たくて、震えていた。
「リクオは…うり二つ…鯉伴様に…。妾に子が成せたなら、きっと、あなたたちのような子だったのでしょう」
嬉しそうで、羨望の混じった言葉。彼女の瞳には鯉伴様と自分の間に生まれた子を想像しているのだろうか。枯れることのない涙が頬を濡らし、床へ落ちる。
その瞬間、かくん、と力を失った乙女さんが、リクオへと倒れてきた。
「!!おい…おい!!」
「あっ…!」
「乙女!?」
「乙女!!」
なん、で…!?
「なんでこんなに治りが遅いの…!?」
さっきからずっと癒しているのに、傷が全くと言っていいほど癒えていなかった。自分の力はまだ有り余っているくらいなのに、どうして…!?
駄目だよ。この人を連れて行かないで…!
「乙女、目を開けろ、乙女!!」
「目を開けて、乙女…!!」
神無が傍へ歩み寄った。すると、閉じかけていた目が、ゆっくりと上がった。
「乙女…!」
「かん、な…?」
「そうよ、私よ、神無…!貴方の親友よ…!!」
必死に呼びかける神無に、乙女さんはふふ、と笑い言った。
「…神無にも、会えるなんて…。…また、寺子屋へ…行きたいわ……」
「行くわ…行けるから…!だからお願い、頑張って…!!」
「必死な神無…なんて、めずらしい…」
思い出すかのように目を細めた乙女さんに、神無は堪えきれず涙を流した。そんな神無の手を撫でたあと、乙女さんは鯉伴様へと目を向けた。
「鯉伴、さま…」
「駄目だ、もうお前を失いたくねぇんだ…!やっと、やっと会えたんだ…!もう、お前と離れたくねぇんだ!」
必死に呼びかけるお父さん。
けれど、乙女さんの言葉に何も言えなくなった。
「あなたには…もう、あなたを愛してくれる方と…出会ったのです…。いつまでも、過去にすがっては…いけません…」
「っ……」
ハッとしたように乙女さんを見つめた鯉伴様。そして思い浮かべる、今もなお、自分達を家で待ってくれる愛しい彼女。
「ねぇ、鯉伴さん!」元気で破天荒でちょっとうっかり者の、自分の妻。
「妾は、貴方と過ごした日々を…そして、貴方の子を抱けたことに…とても、幸せに感じています……」
「乙女っ…乙女…!」
「鯉伴様……どうか、妾の分まで…幸せに…なって…」
だんだんと聞こえなくなっていく声と共に、彼女の目は伏せていった。けれど、乙女さんの顔はどこかスッキリしていて、そして、幸せそうに思えた。
「乙女…おとめ…乙女ぇぇぇ!!」
愛しい人の腕の中で、乙女さんは静かに息を引き取ったのだった。
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