「あー…参ったなこれは」 霧野蘭丸その人は、彼が家の玄関先で顔を曇らせていた。外部から何かの圧力がかかり、ガタガタと玄関が鳴く。顔に張り付いた後れ毛を耳にかけつつ、強風で骨組みの折れた傘をげた箱に引っ掛けた。玄関先の電気をつけ、先程そうしていたように天井を見る。いくつかの水の玉が、今にも落下しようと存在を訴え申し出る。口腔の奥から深く息を吐き出す。 霧野は帰宅途中にアイデンティティを喪失した傘の代わりに、自分の身体を暴風雨から防護するものなど無論持っておらず、薄っぺらいスクールバッグを胸に抱えて家まで走って帰ってきた。全身ずぶ濡れで玄関の敷居を跨げば家の中もこの様だった。雨漏りは一般的に白蟻など同様に害あるものだ。「前もここだったのに、何でお母さんすぐに修理を頼まなかったかなー」およそ、中学生男子らしからぬことをボヤく。 少し跳ねた薄紅梅色の頭髪は、雨濡れにくせっ毛も見る影がない程ぺしゃりとしている。水滴が髪を伝い、毛先からタイルへと染みを作り出す。霧野は学ランを玄関先で脱ぎ捨て、体に張り付いたYシャツと、一番やられた靴下を続けてそこに乱雑に放り投げた。ほぼ全裸状態の彼は冷えた足裏をペタリペタリと鳴らしながら、タオルの積まれているバスルームへと向かう。無論、雨水に打たれた体を拭くためだ。 バスタオルで全身の水気を吸い取ってからタオルで頭をガシガシと強く拭きはじめれば、遠く着信メロディが聴こえた。自然と舌を打ち、大股で玄関へ戻る。左肩に掛けたタオルで両手を拭う。しゃがみこんで、再びタオルを頭に覆いスクールバッグを探る。少し湿っぽかった。探り当てた携帯の着信画面に映される着信は神童からだ。タオルを被ったまま電話に出た。 「もしもし」 『霧野、大丈夫か』 聴こえたのは神童の心配そうな声。霧野の少しぶっきらぼうな応答にも気がついていない様子である。 「何が?」 『台風』 ああ、と霧野は声を洩らす。台風は稲妻町を直撃した。 「大丈夫」 左手でかしかしと髪を拭きながら応える。(家の天井はちっとも大丈夫じゃないけどな)霧野は眉ねを寄せてふっと笑う。思い出したかのように立ち上がり、リビングへと向かった。 『怖く、ないか?』 神童の声は不安そうな響きを漂わせている。実際、霧野が感じる家が揺れている様な感覚も恐らく錯覚ではなく、本物だろう。怖くないと言えば嘘になるが、霧野はそこを素直に返してやらない。 「あれ?神童が怖くて電話してきたんじゃないのか」 キッチンの収納棚からボウルを取り出しながらジョークを交える。ボウルが下のボウルに当たり、ぐわんと音を鳴らすのが大きく聞こえた。電話向こうの神童が黙ったままだ。 『……』 ボウルに触れると音は吸い込まれるように消える。霧野はおちょくったつもりなのに、この無言は肯定か。 (マジかよ) 呆れた笑いが漏れる。手にしたボウルを振りながら、バスタオルを取りにバスルームへと向かった。 「俺は怖くないよ」 子供じゃあるまいし。 そう、余計な一言は呑み込んだ。 『そ、そうか』 「けど神童と違って一人なんだわ」 バスルームで先程自分が使ったバスタオルを掴むとボウルと同じ様に振り回しながら玄関へと向かう。小さく鼻歌を交えていた。 『だ、大丈夫なのか!?』 「はは、平気平気」 焦った声を出す神童に対し、霧野は笑いながら返す。実際、少し心細い思いはあるのだが、この時期はいつもこうなので彼の中では確実に慣れが勝っていた。 水浸しになっている床にバスタオルを放り、水気を吸わせてから足で拭く。天井の水滴が、霧野の乾いた肩に跳ねる。 「雨漏りが酷いかな。神童、雨漏りわかる?」 肩に跳ねた水滴は背中に垂れる。不快な感覚を、背に手を回し払う。尚、天井に染み出した雨水は急降下を繰り返す。霧野は眉間に皺を寄せて天井を睨みつけていた。 『えー…』 バスタオルを手に持ち替え、早急にフローリングの床に広がりを見せる水を掻き回す様に拭き取る。溜めた神童の声を耳に、集中的に降下する地点に置いたボウルはごわんと鳴く。 「家の中に水染み出すヤツ。天井とか」 面倒臭いのか、曖昧な説明を霧野が施せば、同様に曖昧な返事を返す。 『あ、ああ、わかった』 「おーおー、良いもん喰ってる神童くんは見たことないもんなぁ」 ことさら嫌みっぽく、霧野は厭らしい笑みを浮かべて皮肉る。ボウルを置いた横に腰を下ろし壁に凭れた。外の暴風は家を軋ませ、強打の雨は止まるに至らない。それは神童との電話越しには聞こえない。いや、何も聞こえない。再々の無言に額に手を当てた。 神童は恐らく電話向こうで申し訳なさそうにしている。雨漏りを見たことないというのは事実なのだろう。ふざけ半分で冗談を言っても、通じないピュアな人種とはやりにくい奴だ。 むくれろよ、真に受けんな。 霧野がそう思ってみたところで神童に伝わるワケもなく、気持ちは色の抜けた足の指先に移行する。触れると酷く冷たい。 「そうだ、後で写メって送りつけてやる」 気遣うのも億劫そうに膝に顔を寄せる。落ちた瞼はボウルに水滴が弾ける音で薄く開く。そっと息を吐き出すと温かい。 『なあ…本当に平気?俺、』 「来るなよ。暴風域に入っているし、大雨洪水警報出てるだろ」 『けど…』 実行は可能だが、あまりに望ましくない選択だ。神童の純粋な心配は即答で下げられる。霧野はそれが気遣いであるとは気がついていない。 神童が乗れと勧めてくれた送迎を断ったのを今更後悔して肩をすくめてみる。霧野は膝をすり合わせた。末端から感覚の失われていく四肢に、改めて自分が肌着一枚であることを思い出す。 「寒くなってきた」 『大丈夫か?体温めて大事にしろよ』 「つか、今トランクス一丁なんだわ」 電話向こうから僅かに聞こえた「え」に、膝に顔を埋めた。肩が震えているのは果たして凍えか。薄紅梅色のセミロングは水気を失いつつある。冷えた体は毛羽立ちの感覚を彼が背に覚えない。 『…服、着ろよ』 「着たい着たい。今お前から電話がかかってきたからトランクス一丁のまま膝抱えて電話している所」 間違えてはいないが少し話を盛る。生憎溜め息を吐かんばかりの癖に、神童の反応が面白くてたまらないのだ。 ふと、ネットニュースの一行を頭に浮かべる。予報では、明日にも台風は一過していくらしい。それでも明日に練習を再開するのは難しいかと霧野は考える。グラウンドがグチャグチャでは踏みしめ蹴飛ばせる地面にない。実際は屋内コートを練習場とする彼らにはあまり関係なさそうだが。 『ごっ…ごめん!俺のせいか!』 ガタと電話越しに音がした。椅子にでも座っていた神童が立ち上がったのだろう。耐笑はせず、笑い零した。 「ははは。じゃ、そういうことで」 『ああ』 「明日学校で」 『また明日』 ―――――――――― 動作の描写を練習。淡々とした電話と動作を両立させた話。 |