ぼくは霧野くんのことが好きだ。彼の小さな行いが、ぼくが好きになった理由の一因であると認識している。ダメ元で告白してみた所、例の如く断られた。ただ、とてもやんわりと、まるで腫れ物にでも触れるように、彼の唇は「ごめんね」の四文字を形作っていた。
霧野くんは花のようだとぼくは思った。桃色の髪は華やかさを演出しているのに、彼の風情は咲き乱れていて実に奇抜だ。女性的に映るのは、形(ナリ)のみが生み出す幻想で、実際は凄く卑俗な一面も持っている。もしそれで、中身が慎ましやかだったら興醒めしていた。薄ら寒い感じさえする。けれども無論、そうではなかったのだ。そして、それなのにも関わらず彼は気遣いもできる男だった。全く良い男だった。
ぼくが彼のそれにはじめて気がついたのは、一年前の夏、予報では梅雨明けをした頃だったかと思う。
梅雨明けと天気予報は言うけれど、人間の作ったものに完全はない故に全てを当てにすることはできない。科学技術の進化と言えども、それらには当然人間が絡んでくる。確実さが欠けていることを前提に、ぼく達はその情報を頼りにしてその日の装備を決める。しかし、ぼくも人間だ。完璧ではないから抜け目がある。
その日、ぼくの右手は傘立てを前に空中で惑い動きを止めた。煩わしそうにぼくを一瞥し通り過ぎて行く喧騒は、雨音と鉢合わせてガチャガチャと激走するミュージックを奏でる。
「どうかしたの?」
傘立てを前に立ち尽くすぼくに、後ろから声をかけてくれたのが霧野くんだった。振り向こうとしたぼくは、肩口から覗き込まれている事態に動揺して腰が引ける。当時のぼくは、彼のことを知ってはいたけれど話したことは勿論、是体接したこともなかった。美しい顔立ちとは裏腹に友人と低俗な笑いを洩らし、周囲に愉快の種を飛ばす人物としての認識程しかなかったのだ。近くで見た霧野くんの顔は凄く耽美なもので、故意でないにしてもその距離で見つめ合ってしまったことに心臓が収縮する思いをする。雨が地を激しく叩きつける音がぼくの意志とは関係なく聴覚を侵していく。恐らく顔を引きつらせているぼくを気にすることなく、彼は隣に立つと真っ青な傘を傘立てから抜いた。
「二組の子だよね?」
人の目を見て話すことに好感が持てた。薄く微笑みを浮かべた霧野くんがぼくの顔色を窺う。ぼくは反射的に頷いた。その背後からは霧野くんとは種類が異なる美男が靴を片手に昇降口に近づいてくる。もう一方の手に携帯端末器を操作するその男子は、全学年の女子から圧倒的支持を受けている神童拓人くんである。二人ができているのではないかという類の話を以前女友達に聞いたことがあるが、ぼくから言わせて貰えば彼等は単に他人が踏み込めない程に仲が完成されているだけだ。推測で盛り上がっていた女友達は愚かであることに間違いはない。
「なあ、神童」
靴を昇降口に置いた神童くんは霧野くんの声に携帯から顔を上げた。霧野くんは僕を横目に「神童の傘って黒のデカいヤツだよな」と神童くんに投げかける。彼の唇から歯が覗き「ああ」と肯定を発す。霧野くんのゆっくりと口角を上げた。
「はい」
霧野くんは晴れた日の空みたいな笑顔で真っ青な傘をぼくに突き付けたのだ。それが、最初だった。
打算的に考えたとして、彼のその行動には何ら利益がない。神童くんが手に持つ漆のような光沢を持つ黒い傘下から、陰気をも吸い取る青い瞳は手をひらと振った。降雨の外に出でたぼくは、潤びた手に間接的に優しさを掬う。その日、傘立てから姿を消したぼくの有していた傘は、家出から帰ってきた外飼いの猫のようにいつの間にか戻っていた。あの日、霧野くんに何も応えられなかった自分を悔いている。
天気予報が大嘘書いて降った強い雨が連れてきたものは、予想以上に硬く白い手のひら。彼に時めきを感じてしまったという事実に目を逸らしてみても唯一触れた手のひらが熱を思い出して焦燥に駆られた。
そういうことが重ね重ね起これば、気にせざるを得なくなる。彼はそんな無益で無価値な、するりと記憶から落としてしまいそうな、小さな優しさを絶えず所有していた。あの行い以後、無意識に霧野くんを追うぼくの目に映る彼には、二面性があった。男と話をしている時は、下劣且つ不謹慎で馬鹿馬鹿しい狂言をひけらかし、女と話している時はどうもフェミニストを演じている。彼は自分を演じ、TPOで他人を弁えることで、自己の確率を図っているようだ。ぼくは彼の優しさが一律であったことに嫉妬した。けれどそれはつまり、彼はぼくが他の男子と違うという空気を感じ取っていたということになる。
(霧野くんの洞察力に歓喜すべきなのか、恐れをなすべきなのか、ぼくは知らない)
霧野くんに振られてからも、適度な優しさはぼくを付きまとう。心身を蝕んで、追い詰めてくるのだ。それは一向に風の便りというものがぼくの元に届かなかったためである。ぼくが好いた人間は尚にぼくを惹きつける。ジレンマにもどかしさしか感じない。後にぼくは彼に再度接触することとなるのだ。

「どうしてぼくのこと言い触らさなかったの?」
女みたいに柔らかい口調で言葉を紡ぐ彼の目尻には、何が苦しいのか皺が寄せられていた。諦めが悪い男だと内心疎ましく感じつつ、俺を呼び出した彼は問い掛ける。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかったので俺は目を潜めた。
「必要ないからだ」
俺は彼が欲しがりそうな言葉を脳裏に浮かべ、簡潔に切って差し出す。
「君は間違いなく嫌な思いをする」
目を細めて、伏し目がちに言い、数度瞬きでもしてやれば、その男は息を飲む。俺から焦点を外さない男は、徐々に顔を朱に染める。男の下笑んでいるであろう様に、頭頂部から背中にかけて粟立つ。五臓六腑が動くのを感じた。
「優しいんだね。そういう所も好き」
自身が口不調法でなかったことを恨む。妙に湿っぽい目がゆっくりと瞬き、長い睫が男の目を隠す。男の背に移る女の色は俺の弱みに落ちはするが、柔らかさのない同性を俺の感情は拒絶する。
「別に俺は優しいんじゃない」
屋上へと続く階段の踊場は人気がない。嵌め込まれた窓から射す陽光が、膝から下を照らす。妙な緊張感に乾いた唇を結ぶ。どうしてか、暑い。上履きにの側面に書かれた自分の名前を見つめながら、俺は彼の言葉を待たず結んだ唇を開いた。
「酷い奴なんだ」
(嫌な思いをするのは俺も同じ)
(男子に告られたなんて気持ち悪いレッテル付着する前にひっぺがす)
(そんなこと言えば君は尚傷付く)
(俺はなんて嫌な奴なんだ)
(俺は自分が可愛いだけさ)
俺は男の頭上をぼうと見る。男の反応など、最早思慮の範疇に入らない。


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