04
 ほんの少しの幸せは手に乗せた砂のように自分からいとも簡単にすり抜けてしまって、なんども握り返すけれど、手に入れられない。


 あの日から、赤崎が椿と一緒に出かけることも椿を求めることも無くなった。椿は最初に戻っただけだと自分に言い聞かせることだけに徹した。詮索はしない。したくない。なのに、運命というのは捻じ曲げられないらしい。こちらがどれだけ拒もうとも向こうから向かってくるのだ。
 椿は口元を緩めて、目の前の人物を見つめた。

「世良…さん」

 世良は下手くそな笑みを向けて小さく呟いた。椿はどこか遠くで聞いた話のようにボンヤリとそれを耳に届けた。

「やっとさ…彼女と別れられたんだ」





 話があるからと、世良の部屋に招かれた椿は少しだけホッとして部屋に入り込んだ。赤崎がいるかもしれないという事態は免れた。

「テキトーに座れよ、コーヒーのめるっけ?」

 世良の声に肩を震わせてしまって慌てて首を縦に振った。世良は少しだけ笑って、まあ ビビるなよと椿の肩を押してローテーブルの前に座らせた。
 カチャカチャという陶器の音がやけに大きく耳に響いて、椿は耳を塞いでしまいたいと何度も思った。そんなことを考えていたらコトリと目の前に白い湯気が上がったコーヒーが差し出された。鼻腔を擽られてくしゃみがでた。それに世良は声をあげて笑った。いつもの世良さんだ。と、椿は思った。さっきまでは別人に見えたのだ。

「あの…話って…」
「んーあー…話ね…」

 コーヒーを啜り、カップを置く世良の指先を見つめて、ふと、世良を見上げて椿は息を飲んだ。

「俺、見ちゃったんだよね」

 また、変わった。ひんやりとした空気。鳥肌が立った。カップを持つ手が震える。顔をあげられない。逃げ出したい。こわい。

「お前らが、クラブハウスで…」
「っっ!!!ちっ違うんです!ザキさんは世良さんが好きでっ!俺が、俺が誘ったんです俺がっ」

 言い終わる前にテーブルの上にコーヒーをぶちまけてそれでも大声を出した。こんなに叫んだのは、久しぶりじゃないかと頭の隅で考えて、赤崎の顔が浮かんで椿は膝立ちしていた身体を床に崩れるように押し戻した。身体が氷の様に冷たい。呼吸がしにくくて口から荒く息が漏れる。

「はは、椿から誘ったって言葉が聞けるなんてな、椿は…赤崎のこと好き?」

 ティッシュを投げられてコーヒーをティッシュが吸うのをボンヤリと見つめて手を伸ばす。

「…す…き……でした」

 耳鳴りが酷い。コーヒーの薫りに吐き気がしてきた。椿はティッシュで仕切りにコーヒーを拭き取る。

「へえ…過去形なの?」
「…は、い」

 拭き取る手が指先が震えて仕方が無い。好きでしたなんて、嘘だ。きっと世良にも分かっているに違いない。

「ふーん…そー………じゃあ……俺が貰ってもいーの?」

 今、自分の頭を観ているだろう世良の顔がどんな風になっているのか椿には分からない。目をみれば何かが溢れてしまいそうで椿は拭き終わったテーブルを仕切りに拭き続けた。

「こないださ、彼女に別れたいって言われてわけわかんなくなって…電話してた…手が勝手に赤崎に電話してた」

 そういうことってあるんだな。と、世良は感心したように頷く。

「……おれには…関係…ないことです」
「関係ないとか言っちゃうんだ椿……セックスしたのに…さ」

 ドスンと心臓がどこかに落っこちる感覚に陥る。

「…っ……俺は…代わりでも、幸せでした…だから…もう、何も望んじゃいけないんです」
「…そーいうの、なんていうか知ってる?椿……」
「…」
「偽善者っていうんだって……まあ、それでいーなら良いよ。お前が赤崎のこと好きでも、赤崎は俺のこと好きだから、」

 あいつって分かりやすいよな、と、世良は苦笑いとも取れ無い笑みを浮かべた。椿は自分の手をぎゅうぎゅうと握りながら、世良に言葉を投げた。喉から滑る言葉があまりに小さくて椿は語尾だけ大きく吐き出した。

「……世良さん…は?」
「?」
「世良さんは…ザキさんのこと……」
「好きだよ?…後輩として…お前ら後輩と同じ」
「え…」
「付き合えば、セックスすれば情もわくよ…赤崎みたいに…な」

 赤崎みたいに、の意味は分からなかったが世良の意図する言葉の意味は分かった。

「そ、それじゃ…駄目ッス」
「なにが」

 世良の冷めた言葉が突き刺さる。

「ザキさんは…世良さんのこと本気で…」
「椿、それが甘いっていってんだよ」

 お前だって、俺の代わりでも幸せだったんだろ。好きなんだから。世良の言葉が脳に滑り込んでくるまでに大分時間がかかった。


 椿はいつの間にか自分の部屋へと帰ってきていた。どうやって帰ったのか覚えていない。覚えているのは、冷めた世良の瞳。椿はブルリと寒気がするのを感じながらベッドへとダイブした。

(130330)

 


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