名前さんの家で料理を作るのはこれが3度目だった。
初めは親子丼、2回目はオムライス。料理は得意でもない俺がわざわざ彼女の家に出向いて料理を振る舞うのは良くも悪くもすっかり定番になってしまい、名前さんはその都度「ちょっと物足りない」と味付けに文句をつけながらも嬉しそうに食べてくれるのである。
鍋の中でぐつぐつと煮立つカレールウを掻き混ぜながら、今日こそは名前さんに美味しいと言ってもらえるのではないかと期待していた。野菜さえあれば期待していた。期待できたはずだったのだ。
名前さんからカレーが食べたいと連絡が来た時、俺はカレーライスなんてレシピ通りに作れば味付けの心配なんて必要ないと小躍りしながらスーパーで鶏肉を買った。カレールウと野菜は自宅にあるから肉さえ買ってきてもらえれば大丈夫だと彼女が言っていたからだ。しかし、名前さんの自宅に入り、台所にある冷蔵庫の中で人参やじゃがいもが腐っているのを目の当たりにした瞬間、間違いなく物足りないカレーが出来上がることが確定したのだ。
「十次、ご飯炊けてるよ、カレーはまだ?」
俺が料理を作り終えるまで居間で雑誌を読んでいた名前さんが俺の側まで近付いてカレーの鍋を覗き込む。俺よりも少し小さい身長に高校時代のジャージ。色素の薄い髪の毛は寝起きのせいか毛先が色んな方向に跳ねている。可愛い顔立ちをしているのに勿体無い。だからこうも恋人に振られてしまうのだろうと考えていると、名前さんは不思議そうに「十次?」と俺の顔を覗き込んだ。
「……ああ、もう出来てますよ。味見してみます?」
名前さんが頷くと、俺は戸棚から小皿を取り出し鍋の中のルウを一口分垂らして彼女に手渡す。小皿を受け取った名前さんは猫のようにぺろりと舌でルウを舐め取り、納得したかのようにうんうんと首を縦に振った。
「うん、やっぱりちょっと物足りない」
「でしょうね!!」
へらりと笑って3度目の言葉を口にした名前さんに思わず俺は強い口調で同意した。余程面白かったのか腹を抱えて笑う名前さんに俺はため息を吐きながらカレーの盛り付けに取り掛かろうとする。
「ほら、手伝って下さい。野菜買い出しに行くって言ったのに断ったのは名前さんですよ」
「そうだったね、ごめんごめん」
名前さんがカレー皿に白米をよそり、俺は鶏肉だけのルウをかける。二人前のカレーライスを居間に持ち運び、テーブルの上が片付いていないことに気付いた名前さんが慌ててテーブルの上の雑誌や開封したお菓子を畳の上に置いてスペースを作る。食べ終わったら部屋も片付けなければいけないな、と呆れながらカレーライスをテーブルに置いて腰を下ろす。片付けが苦手な癖にアパートで一人暮らしをしている名前さんの部屋は洋服やゴミで溢れかえってとても汚いのだ。
カレー皿を置いた側にシルバーリングが置かれていた。思わず手に取ると、指輪は手元できらりと輝いた。数日前まで肌身離さず身に着けていた恋人とお揃いのペアリングを俺はしっかりと覚えている。
「これ、捨てて無かったんですね」
「うーん、人から貰ったものって中々捨てられなくてね。いる?」
「要らないですよ。知らない男とお揃いの指輪なんて」
「でも向こうも捨てちゃってるかもしれないし。振られる前にはもうつけてなかったから」
「相手も捨ててるんだったらこっちも捨てちゃえばいいじゃないですか」
別れた相手に未練があるのかと思えばそうでもないらしく、「そっか、そうだよねえ」と納得したように頷いた。俺が指輪を名前さんに返すと、彼女は右手の薬指にそれを嵌めて似合うかを尋ねた。俺は正直に似合ってないと答える。幼い顔立ちの名前さんにはシンプルな指輪よりも可愛いデザインの指輪の方が似合う。そう伝えると「私もそう思う」と名前さんは控えめにくすりと笑った。
「ねえ十次、」
「はい?」
「愛ってふたつでセットなの。ひとつになったらそれはただの片想いだねえ」
飄々とした口振りで語る名前さんは右手を掲げ一頻り指輪を眺めると、その指輪を指から外して部屋の隅のごみ箱へ目掛けて投げ捨てた。指輪はきらきらと光りながら弧を描き、目標地点へ落下する。ナイスシュート。彼女はどうでも良さそうに呟いた後、両手をぱちんと合わせて「いただきます」とカレーライスにありついた。
名前さんの3度目の残念会。その時食べたカレーライスはルウと鶏肉だけの素朴で物足りない味がした。
大学入学当初、サークル見学でジャズサークルの演奏会があることを知り興味本位で部室を訪れた際に、サックスを吹けることを知ったサークルメンバーの一人に懇願される形で入会を求められ、押しに弱い俺は本来入会する予定だったテニスサークルを辞めてジャズサークルに入会した。
サークルのメンバーは全体では40人程。その中で5、6人の小編成のバンドを組み、校内やライブハウスで定期演奏会を行ったり、地域で行われているジャズフェスティバルに参加するのが主な活動内容だ。俺が1年の時に組んでいたバンドは、入会するきっかけになった3年生の先輩が率いるトランペット、テナーサックス、ベース、ピアノ、ドラムの5人組バンドで、マンハッタン・ジャズ・クインテットをリスペクトした演奏を行っていた。名前さんは同じサークルのメンバーだった。しかし、当時は組んでいたバンドが違うため直接の関わりは全くと言っていいほど無く、彼女のことは“小さい身体で大きなコントラバスやベースを悠々と弾きこなす姿が印象的な2年生の先輩”程度にしか思っていなかった。
名前さんと俺が深く関わるようになったのは、1年の終わり頃。近所のスーパーの精肉コーナーで鶏肉を眺めていた名前さんに声をかけたのがきっかけだった。苗字さん、と声をかけると、わざとか本当かわからないが「鎌倉くん?」とここしばらく聞くことのなかった名前で呼ばれ、すかさず「室町です!」と訂正すると名前さんは「知ってるよ、サックス担当の室町十次くんだよね?」と愉快そうに笑った。どうやらマンハッタン・ジャズ・クインテットのファンらしい。
名前さんは精肉コーナーに並ぶ鶏もも肉のパックを手に取って、俺に親子丼は作れるかと尋ねた。作り方なら何となくわかると答えると、名前さんは俺に親子丼を作って欲しいと頼んだ。冗談かと思えば名前さんは本気で、「恋人に振られた悲しみは他人の作った親子丼でしか癒せない」と理解できない持論を持ちだし、俺は強引に名前さんの家まで連行されて親子丼を作る羽目になってしまったのである。
初めて名前さんの自宅にあがった時はあまりにも散らかった部屋にどん引きした。脱ぎ散らかった洋服や下着、読みかけの雑誌と袋の開いた食べかけのお菓子。どれがゴミでどれが必要なものなのかわからないものばかりが床やテーブルに散乱した光景に唖然としていると、彼女は「彼氏家に呼んだら、こんなだらしない人と付き合えないって振られちゃったんだよね」と気恥ずかしそうに打ち明けた。思わず俺はそうだろうと口に出して彼女の元彼に同情したのを今でも鮮明に憶えている。
作り方はわかるとはいえ、初めて作った親子丼は少し味が薄かった。その親子丼を名前さんは「ちょっと物足りない」と言いながら、嬉しそうに平らげてくれたので俺は複雑な気持ちであったが、満足気な彼女の様子に納得して俺も自分で作った味の薄い親子丼を平らげた。これが俺と名前さんと初めての残念会だった。
それをきっかけに名前さんとはサークル内でも頻繁に会話をするようになり、俺が2年生になってからは同じバンドでマンハッタン・ジャズ・クインテットが演奏した楽曲をコピーするようになった。
名前さんは男女分け隔てなく明るく振る舞うムードメーカーで、少しだらしない。自分の尊敬するテニス部時代の先輩にどこか似ている気がして、放っておくことができなかった。
2回目の残念会は名前さんが3年生になってすぐに出来た彼氏と別れた時。恋人ができたという報告を聞いてから僅か1ヶ月しか時間が経っていなかった。“ワーク・ソング”のスコアブックを図書館で印刷している際に「十次がオムライスを作ってくれないと明日から私は大学をサボる」と俺にとっては何もマイナスにならない脅しを受け、仕方無く帰りにスーパーで材料を揃えて名前さんの家に向かった。名前さんが大学をサボってしまえばバンドの練習に支障がでる上に、酷い別れ方をしたと聞いたので俺は彼女が心配だったのだ。
とろとろの玉子じゃないとちょっと物足りないよね、と俺の作ったかたい玉子のオムライスを頬張りながら名前さんは笑った。文句があるなら自分で作ればいいといじけてみせると、名前さんは誰かに作ってもらったものの方が気持ちが篭っていて嬉しいのだと言った。その後は散らかった部屋を片付けながら元彼の愚痴や他愛もない会話をした。元彼にはずっと付き合っている彼女が既に居て、名前さんのことは身体目当ての遊びだったと言っていた。別れる決め手は案の定この汚い部屋だったようで、名前さんは「初めてだったから心の準備もしてたんだけどなあ」と呑気に笑っていた。俺はそういう問題ではないと呆れながらも、名前さんが別れたことを重く引き摺っていなかったことに安堵していた。
すぐその後にできた彼氏は今までの経験を活かし、自宅に招かないようにしたことによって珍しく長く続いていた。彼氏とお揃いなのだと嬉しそうに語るシルバーリングは嫌でも視界に入り、名前さんは幸せそうだというのに俺は心が鬱々としていた。
名前さんがサークルを引退してからは校内で顔を合わせることが殆どなくなってしまった。会わなくなってしまえば彼女と自分が親しい関係であることは嘘のように思えてしまう。恋人とはきっとうまくいっているのだろう。そんなことを思っていた矢先、4年に進級してOB扱いになった名前さんがサークルに頻繁に顔を出すようになった。彼女の右手には指輪が無くなっていて、尋ねるとやはり恋人とは別れてしまったと笑っていた。
3回目の残念会はカレーライスだった。具が鶏肉しか入っていないルウは、スパイスの良い香りが鼻腔を刺激するというのにどこか物足りない。そんなカレーを食べた後、俺は相変わらず散らかった部屋の掃除した。「ホント、名前さんは俺がいないと何もしないですね」と呆れてみせると名前さんは「そうだねえ。私、十次がいないと駄目かも」と笑って言った。
十次が弟だったら良いのになあ。そんなことをぼやく彼女に、俺は部屋に散らかった洋服を畳みながら名前さんが姉さんだったら嫌ですよ、と伝える。名前さんは大きく溜め息を吐いて残念そうにテーブルに突っ伏した。
それから暫くの間、名前さんには恋人ができなかった。就職先が決まり時間を持て余した名前さんは飲食店でバイトを始めたらしい。就職先が決まったOBの4年生がサークルに顔を出すのは稀ではないため、名前さんも同じようにバイトが休みの日はサークルに現れては新入生に演奏指導を行っていた。
3年生がサークルを引退する最後の演奏会は10月に行われる大学祭で、今年の大学祭は俺の誕生日と重なっていた。演奏会は毎年、引退する3年生だけでバンドを組み、家族やお世話になった先輩、校内校外構わず友人を招待して演奏するのが定番になっている。俺も両親と名前さん、サークルに入るきっかけになった先輩を誘い、それから中高の部活の先輩の千石さんを誘おうと考えていた。
千石さんとは大学で別れてから年に一度顔を合わせる程度の付き合いだったが、彼が率先して作った山吹テニス部のLINEで頻繁に連絡をとっているので、誰が現在どうしているのかはある程度把握出来ている。千石さんはつい最近バイト先で彼女ができたらしいし、地味'sの二人は一般企業へ就職したと連絡があった。
千石さんに演奏会に来ないかと連絡すると2つ返事で了承してくれた。その際に、久し振りに合わないかと山吹中近くにある懐かしのファーストフード店に誘われ、ハンバーガーを食べながら千石さんと近況報告をした。千石さんは今月のラッキーアイテムが眼鏡で、伊達眼鏡にしてから彼女ができたのだと楽しそうに語っていた。右手の薬指に嵌められた太陽モチーフの指輪は彼女と対になっているのだそうだ。
「室町くんは恋人とか好きな人とかいないの?」と聞かれ、咄嗟に名前さんの顔が浮かぶ。俺は名前さんのことを目の前の千石さんに重ねて手を焼いていた節がある。しかし、本当にそれだけなのだろうか。さあどうでしょうね。そんな言葉で話を濁すと、千石さんはにやにや笑って「何か困った時は相談に乗るからね、鎌倉くん」と言った。俺が室町ですと訂正したことは言うまでもないだろう。
大学祭当日、俺達のバンドが最後に演奏した楽曲は季節に因んで“Autumn Leaves”を演奏した。トランペット、サックス、ピアノそれぞれにソロパートがあり、曲の終盤にかけてハイハットのリズムに合わせて加速していく見せ場も盛り上がりも十分な楽曲である。会場も多くの人が集まり、引退には相応しい舞台であった。
演奏が終わり、舞台裏で楽器の片付けをしていると様子を見に来た名前さんが缶コーヒーを差し入れてくれた。
「十次、お疲れ様。みんな良かったねえ」
「有難うございます。これで俺も引退ですね」
マンハッタン・ジャズ・クインテットが演奏した曲の中でも人気の高い楽曲をサークルの最後に演奏できたことは、今まで演奏し続けてきた俺にとっても、サークルの先輩や名前さんにとっても喜ばしいことであった。
「今日って十次の誕生日でしょ?」
突然の言葉に俺は、え、と声を漏らす。今日は俺の誕生日であることは間違いないが、まさか名前さんが知っているとは思っていなかったのだ。現に名前さんと知り合ってから俺は一度も彼女に誕生日を祝ってもらったことがない。
開けてみて、と手渡された小さなラッピング袋のリボンを外すと、中にはパンダがサックスを吹いているストラップが入っていた。
「可愛いでしょ?十次にぴったりだと思ったんだよね」
「いいんですか?有難うございます」
楽器ケースにつけるか、携帯につけるかを考えながら偶然視界に入った彼女の指輪の位置に違和感を感じる。視線を感じたのか、名前さんは、「可愛いでしょう?」と自慢気に指輪をこちらに見せてはにかんだ。
右手の薬指、銀色の月がモチーフされた指輪。心臓がどきりとした。
「実はね、この間バイト先で知り合った同い年の人と付き合うことになったんだけど、後輩に誕生日プレゼントを渡したいって相談したらすごく可愛いお店教えてくれて」
指輪もキーホルダーもそのお店で買ったんだよ?
そんなことはどうでも良かった。バイト先で知り合った同い年の人。月のモチーフの指輪。太陽の指輪は恋人と対になっている。こんなにも偶然が重なるのだろうか。
「でもまさか十次がキヨくんと知り合いだなんて知らなかった。さっき客席にキヨくんが居てびっくりしちゃった」
「キヨくんって……?」
俺の知り合い、俺が演奏会に招待した人。名前に“キヨ”がつく人なんて然う然う居ない。もうわかりきったことなのに俺は馬鹿みたいにとぼけていた。名前さんは嬉しそうに笑いながら言う。
「キヨスミくん。ちょっとだらしないけどすっごく格好良いんだよ」
千石さんは気付いていたのだろうか。名前さんは嬉しそうなのに、名前さんの恋人は俺が尊敬する千石さんだというのに、どうして心臓はばくばくして身体がこわばるのだろう。この後千石さんに顔を合わせるのが、こんなにも気が重いのは何故だろう。
「十次、どうしたの」
「ああ、いや、千石さんに恋人が居たのは知ってたんですけど、まさか名前さんだったとは思ってなかったので」
「あはは、そうだよねえ、世間って狭いねえ」
千石さんと名前さんは似た物同士だから波長が合うのだろう。俺が一番尊敬し、信頼できる人だ。彼ならきっと名前さんも長続きするだろう。
思い返してみれば自分の気持ちなんて明確だった。千石さんが恋人だと知っても素直に喜べないのも、演奏会に名前さんを誘ったのも、名前さんに自分が弟だったら良かったと言われて嫌だと否定したのも、彼女の家で上手くもない料理を作ったのも、全部明確だというのに、背けていた自分の気持ち。
もう俺は名前さんの部屋で料理を作ることも「ちょっと物足りない」と言われることもないのだろう。
最後に名前さんと食べたのは鶏肉しか入っていないカレーライス。その時の素朴で物足りない味と、あの時の名前さんの言葉を思い出す。
“愛ってふたつでセットなの。ひとつになったらそれはただの片想いだねえ ”
俺は名前さんがくれたストラップを握りしめる。ストラップのパンダは一匹。名前さんの月の指輪は太陽の指輪とふたつセット。
ふたつセットになれなかった俺の気持ちは、実ることのないただの片想いだった。
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