夏の終わりとは言えまだ太陽は燦々と降り注いでいる。その光を浴びた墓石達は光を受け、反射させて、それでいてひっそり佇んでいる。桶と杓を借りて水を汲んできた御柳の後ろをついていくと“大神”と書かれた墓石の前で立ち止まった。

彼が尊敬している人。

生前、彼は御柳とどういう関係だったのだろうか。石に水を掛けて丁寧に汚れを落としてやる御柳に倣って私もカラスが落としていったであろうゴミを拾う。御柳の目は見たことないくらい真剣だった。綺麗に手入れされた墓石を依然黙々と磨いていく御柳の背中は物悲しかった。花を供えて線香に火を着けて、無言で手を合わせる御柳の隣で私も手を合わせた。

「……五年前」

“大神”の字をじっと見つめながらぽそりぽそりと紡ぎ出す横顔があまりに切なくて、目のやり場に困りながら私も彼が尊敬している人の眠る石をただただじっと見つめる。

「事故だった。俺が大神さんの帽子取って車道に飛び出したとき、トラックが来て。大神さん俺を庇って」

即死だった。

その言葉に息を飲む。

五年前。
私達はまだ幼くて、世界に終わりなんてないし未来は無限だと信じて疑わないような年齢の頃。御柳にとってその可能性を司る存在を、目の前で。目を逸らしたくなるような現実を、彼はずっと一人で抱えていた。

尚も御柳は続ける。
彼に憧れて当時の友人達と練習を見に行ったこと、万引きしているところを庇ってもらったこと、野球を教えてもらったこと、楽しかった思い出。
訥々と話す御柳の声が蝉時雨に乗って私の意識に深く入り込んでくる。

憧れていた人がいた。その人の野球の技術だけではなく、おおらかな性格にも魅了された、まるで全てを包み込んでくれる人で、彼が語る将来は非現実的なのに不可能を可能にしてしまえるような説得力があった。小学生相手に本気でぶつかってくるような、だけど大人気ないとは思えなくて、優しくて、いつも笑ってて、前だけを見ていて。
その人になりたかった。その人のようになりたかった。だけどまだ小学生、彼には程遠い。ほんの少しの出来心、せめて彼の身につけているものがほしかっただけ。それだけだった。
失うとわかっていたら欲しがったりしなかった。

共に大神さんに憧れた友人に合わせる顔がなくて彼らからも野球からも逃げたこと。誤解が生じて、自分を連れ戻そうとした友人に怪我を負わせてしまったこと。そして聞いてしまったのは。

“大神さんじゃなくてあいつが死ねばよかった”

「……その通りだよな、その通りすぎてムカつくわ。あの時俺が」
「ふざけないでよ、そんなこと思っても言わないで」

思わず口を出すも、しゃがんだ膝の間に突っ伏した御柳の表情は私からは見えなかった。

大層なことを言うつもりはないし、きっと言えない。そして御柳自身もそれを望んでいないことはわかっていた。だけど思うのだ。彼が身をとして守った命は無駄にしないでほしいと。そして思った。私が彼と出会った意味、惹かれた理由。
ただのちゃらんぽらんな男なら、それこそ出会った当初に思った通り一夜、よくて一月しか続かなかっただろう。ぶつかることもあったけれどなんだかんだ一緒にいて、更に共に未来を見たいと願う。
同情でもなんでもない。永遠がこの世にないことも、人を信じる怖さも一人の怖さも知っているから彼を一人にしておけない。だってこのままじゃ御柳は一歩も進めない。進むことを心の奥底で躊躇っているからだ。

「あんたさ、野球も大神さんも、その友達も、ほんとは今でも好きなんでしょ」

御柳はなにも答えなかった。項垂れて、子供のように背中を丸めて、まるで叱られることに怯えているようだった。

「だったらちゃんと向き合っていいと思うの」

頷きもせず視線も合わせない御柳の意思は私にはわからない、だけど本当はその言葉をずっと待ち望んでいたのかもしれないと思った。
もうこれ以上悔いる必要はないと思うのだ。だってきっとそんなこと大神さんは望んでない。助けた少年が今でもあの頃のままではきっと怒ると思うのだ。

「逃げるのは楽だけど、その分遠くなっちゃうんだよ」

私と御柳の関係もそう。もう目を逸らすのはやめる。だってこんなにそばにいたい。

人生に投げやりになったふりをしていても、性根というのはそんなに簡単には変わらないものなのかもしれない。御柳に惹かれたのは悪い男だったからではなくて、悪い男のふりをする今にも壊れそうな男だったからなのだろう。どこかが自分に似ていると思ってしまった、だからこそ離れがたかったのかもしれないと。

本当はもっと野球が好きなくせに、真剣に向き合えないから時々逃げようとする。本当は大神さんを今でも尊敬しているけれど、それと同時に後悔に苛まれるから思い出すこと自体を辞める。きっと仲違いしているその友人のことも、御柳は本当は今でもちゃんと好きだ。だから今でも悔やんでる。傷ついている。
馬鹿だなあ、本当に。だけど幼少のトラウマはそれほどまでに大きい。彼は目の前で憧れを失ったのだ。

最初だけ人懐こく愛想を振り撒くくせに御柳が心まで欲しがらなかった理由に初めて触れた。寂しさや空虚感はいつまで経っても拭えなくて、誰かにそばにいてほしくて、だけど本当は失うことにもううんざりしている。無条件に人を信じることはなによりも怖い。今こんなに好きで仕方ない私も、きっといつかはどんな形であれ御柳のそばにいられなくなる日が来る。得ることと失うことはいつでも表裏一体で、裏切られる可能性や失う可能性を自覚してその上で覚悟がないのならそれは所有しているとは言えない。なにも持っていないのと同じだ。だったらなにも持っていない方がきっと楽だ。だけどそれじゃ御柳を救えない。
だから例えいつか失うとわかっていても今、御柳の心ごと全部欲しい。そして同時にこの男に全て捧げたいと思う。だってこのままじゃ私だってどこにも進めない。
だけど天の邪鬼なこの男はきっといらないと言うだろう、だからわかりやすく私の未来をあげたいと思った。

「なんかあったらここに来ようね」

そう言うと力なく笑った御柳は、やはり今でも怯えている。なにかに怯えているからいつでも虚勢を張っている。

「いろんなこと報告しに来ようよ、結婚しましたとか子供できましたとか」
「お前と?バカ言ってんな」
「御柳の友達、私も会ってみたいな。子供の頃のあんたの悪行全部聞いてやろうっと」
「お前本気で黙らすぞ」

若さ故で言っているだけだとしても、例え待ち受ける未来が呆気ないものだとしても、積み重ねた思い出がいつか首を絞めたとしても、だからといって及び腰ではなにも掴めない。今この瞬間はちゃんと本気だ。だけど見えないからこそ未来を信じたい。そこに約束を交わしたい。所有する覚悟とは、そういうことだと思うから。

「報告ねえ」

どこまでも澄み渡る空を見上げた御柳の目は、青に吸い込まれそうなほど真っ直ぐな目をしていた。その視線の先に滑り込むように立ち上る線香の煙。天へ昇っていくように見えたのは、少しロマンチストすぎるだろうか。

「彼女できたかもしんねえっす、俺」

答えるようにゆらゆらと煙は揺れる。夏は空が近いから、だからお盆は夏にあるのかもしれないと思った。お盆は過ぎてしまったけれど。それでも夏はまだ、終わりそうにない。

2015.7.1〜2015.8.21 腑抜けの夏 fin.
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