もう会うのはやめにしよう。

かつて先に音を上げたのは私の方だった。

あのとき追い縋ってきた御柳はこんな気持ちだったのだろうかと考えて、だけどそれはいくらなんでも高望みな気がした。あいつが一人の女に本気にならないことくらい、わかっている。だけどもしあいつの気が変わって、時折見せるその優しさやあどけない笑顔を一人の女のために費やすというのならそれは大層素敵なことだと思うしよい心がけであると思う。それが自分に向くのならもっといいと思う。

だからこそこのままでいいはずがない。こんな終わり、わかっていただなんて笑わせる。認めたくなくてしがみついていたくせに、今更時が来たから諦めますだなんて無理な話だ。

私とはもう終わりだと言った。拒絶されたのだと思った。少しでも、少しずつでも近づいていけていると思っていたのは私だけだったのだろうか。人を所有したがるくせに、自分の気持ちをろくに話もしない御柳だって、本当はずっと怯えていたのではないのか。どうせ一夜、よくて一月だと思ったけれど私達、長く続いた方だ。だからこそ欲は深くなり、彼の全てを所有したくなってしまった。

会いに来るなと言われて数週間、私は甲子園球場にいた。惚れた女のなんと惨めなことか。関係が終わったとしても「気が向いたら見に来い」なんて言葉を真に受けて、一目でも多く彼を見たかった。彼がのめり込むものを私も見たかった。例え来るなと言われても。

そんなとき、墨ちゃんから着信が来たのである。

ホテルで一人のんびりしているとけたたましく着信を知らせる音。御柳からだと期待したのも束の間、画面は無慈悲にも「墨ちゃん」を告げている。
もう会わないと言われたのに、なにを期待しているのだろう。自分で自分が情けない。それでも無視するわけにもいかず電話を取った。

「もしもし?どしたの」
『夜遅くにごめんねなまえちゃん、寝てた?』
「起きてた、大丈夫だよ」
『そっか、ならよかった』

電話越しでもよくわかる、穏やかな抑揚の声。例えばこの人を好きになっていたらなにか少しは変わっていたのかな、なんてあんなことがあったあとだとしても思わずにいられない。

「それでどうしたの?会いたくなっちゃった?」
『違うよ、なまえちゃんが好きなのはあいつだろ』

しょうもない冗談も笑って流されるくらいにはわかりあえているのに。そんなことをひっそりお気楽に考えていると、思いもよらない事態を告げられる。

『それでさ、その御柳なんだけどなんか聞いてない?』
「え?」

その瞬間、やけに早鐘を打つ鼓動。私の知らないところで、なにかが起こっている。それも私の好きな人。

『あいついなくなったみたいでさ、まあそれは今に始まったことでもないんだけど、なんか一悶着あったみたいで』

あいつのあの性格上、揉め事は少なくないと思う。それでもこんな事態になるくらいには深刻だ。いつかの瞳を思い出す。今御柳は、一人夜の街で項垂れている気がしたのだ。

「ごめん、知らない」
『そっか、そうだよね、ごめん』

なにかあったら知らせて。
そう言い残して墨ちゃんは電話を切った。


夜なのに大阪の夜は明るくて、途方もなくて、だから御柳は孤独なのだと思った。行かなくては。早く会わなくては。もう会わないと言われたとしても、それがなんだ。彼を待ち続けるなんて、本当はもう一秒たりとも無理だ。私の足は、私の目は、いつだって御柳を求めてる。
だって本当は彼だってそうだろう?
いつだって人の温もりに飢えているくせに、心ごと捧げようとするとそれを拒絶する。

お前も他の奴と同じかよ。

いつか彼はそう言った。
その言葉の意味は、その言葉の裏は、彼が求めてるものは。考えれば簡単なことだったのに、怯えていたのは私だけじゃなかったのに。なんでそんな簡単なことに気がつかなかったのか、自分で自分に呆れる。

朝方に見つけた彼は膝を抱えて項垂れていた。見たことのないその様子に、なにかがあったことは一目瞭然。なんて声を掛けるのが正解なのか考えていると、すん、と鼻を啜る音が聞こえる。

泣いているのだと、気がついてからは早かった。

御柳の隣に腰を下ろして彼の腕にそっと手を這わせる。びくりと肩を揺らしながら、つり目を丸くして顔を上げた御柳は私の姿を確認するといつもの表情に戻った。

「んだよ、お前かよ」
「うん、ごめんね」

なんと言われたってもうどうでもよかった。今、私の目に映るのは、この手で触れたいと思うのはもう一人しかいない。その人に会えたのだから、もうどうだって。

「墨ちゃんから聞いた」
「……ったく、あいつ余計なこと言いやがって」

ぽつぽつと朴訥にしか話さない御柳が消沈していることは明らかだった。全てを話してくれなくていい、ただひとつ、そばにいることさえ許してくれればいい。こんな様子の御柳を放っておくことなんて私にはできなかった。

「で?墨蓮から聞いてわざわざ埼玉から来たのか、ご苦労なこった」

濡れた瞳に朝の光を映した御柳の瞳は悲しいくらい綺麗だった。こうして会話をすることも、隣にいることも久々だ。さてどう言おうか。

「ごめん、実はずっといたの」
「は?」
「あんたが野球してるとこ見たくて」

そう言うと彼は俯いて小さく笑った。乾いた笑いだった。

「お前バカじゃねえの。わざわざ俺のこと見に来たのか」
「気向いたら来いって言ったのあんたじゃん」
「もう会わねえっつったろ」
「うん、ごめん」
「ったく、てめえはよ。朝イチでさっさと埼玉帰れよ」
「ごめん、それは無理」

そう言うと黒目がちな瞳に睨まれる。赤みが差すその目元が痛々しくて、もう見ていられない。

「今のあんたを放っていくとか無理」

ぴしゃり言い放つも気分を害したらしい。プライドの高いこいつのことだ、こんな姿を見られて冷静でいられるはずがない。盛大な舌打ちを皮切りに御柳は声を荒げた。

「てめえに俺の何がわかる。お前とはもうあれきりだ、会いに来いなんて頼んでねえから」
「わかんないよ、だって御柳なにも言ってくれない」
「なんでお前にいちいち言わなきゃなんねえんだよ、うぜえんだよ消えろ」
「言ったでしょ?」

どれだけ罵声を浴びせられても、どれだけ冷たい態度を取られようと、取り乱す御柳とは裏腹に私はひどく冷静だった。だってそんなの簡単なこと。ここにいる理由なんてひとつしかないからだ。

「あんたのことが好きだって」

あんな別れをしたあとだというのにしれっと言った私に御柳は面食らったらしい。会いたいという気持ちだけが先行し続けて、やっと会えた男の前では言葉は待ってはくれない。それが例えどんな情けない姿であろうとも、会えたことには変わりない。まして事情も知らない私が、彼を情けないだなんてどうして言えるのか。

「負けるまで私も埼玉に帰らない。でも勝ってくれなきゃ嫌だ」

なんのために来たのか。野球をしている御柳なら、それこそ地元でテレビでも見ていればいい。そうしていられなかったのはそばにいたいからで、願わくは支えたいから。
それきり黙った御柳は唇を噛み締めた。覗く八重歯で今にも噛みきってしまいそうなほど。大人しくなった御柳を確認して、赤くなった目を冷やしてやろうと近くまでタオルを濡らしに行くため腰を上げる。しかしそれを拒んだのは御柳だった。

「行くな」
「大丈夫だから、タオル濡らしてくるだけだから待ってて」
「いらね」
「でもあんたの目見てらんない」
「ここにいろっつってんだろ」

なにそれ。さっきまで帰れだ消えろだ散々言ってたくせに。だけど今、御柳の本音に触れられた気がしてたまらなく嬉しいのも事実。目の前の男がかわいくて仕方ない。惚れた弱味というのはどうも易いものではないらしい。思わず苦笑を漏らすと、彼はまたしても舌打ちをひとつ溢す。

「てめ、なに笑ってんだ」
「別にー?芭唐クンはかわいいなあって」
「シメんぞ」
「いいのかな?私帰ってもいいんだよ?」
「るっせえ、俺のこと追っかけて来たくせになに言ってんだ」
「わかってんじゃん。大丈夫だって、そばにいてあげるから」

そばにいてあげる、なんて。御柳のそばにいたいと思うのは私の方なのに。自嘲気味に笑うと、私の手首を掴んでいた御柳の手が手のひらまで滑り降りてくる。そのまま絡み合う指先。
これくらいのことで照れるなんて私もどうかしている。それでも確かめるように何度も握り直す御柳の指先から戸惑いが伝わってくるのが嬉しくも思う。自分から手を繋いでおいてなんなのよ。本当に、かわいいやつ。

本当に、愛しいやつ。
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