夏の日、少年赤葦視点

八月の終わり。
まだ蒸すように暑い体育館で、フライングする烏野を尻目に開け放たれた扉まで涼みに行く。先客は木兎さん。

「あっちーなー!!」

バタバタとTシャツの襟で扇ぐ木兎さんに「そうやって動いてる方が暑くなるって知ってます?」と訊ねてみる。聞いた瞬間にピタリと動きを止めた木兎さんは、厄介の塊ではあるが単純でもある。ある意味、懐に入ってしまえば扱いやすい人。そういう人がいるからこそチームがまとまるし、そういう人だからこそ信頼が置ける。

「そういうことは早く言えよ」
「常識なんで知ってると思いました」

しれっと言うと「赤葦辛辣だな〜」という野次が飛ぶ。しかし言われた当人が気にしていないので、あまり気に止める必要もなさそうだ。

「あ、なんかぞろぞろ出てきた」

扉の方から大きな目で外を観察する木兎さんは、さながら鳥籠に捕らわれた梟だ。そしてそれを逐一報告してくるものだから相槌に困る。「見て赤葦、あの子かわいい!」とか、どう反応しろというのか。そう思っていると、木兎さんは最も反応に困ることを遂に言い放つ。

「あっ!なまえちゃんだ!!」

またか、と呆れるのはもはや黒尾さんだけではない。オオカミ少年よろしく朝から言うものだから皆聞き流そうとはしたものの、条件反射でそちらを見る。

「あ、ほんとだ」

ぺこりとこちらに会釈するのは間違いなく黒尾さんの彼女のなまえさんで思わずこちらが固まった。遂に本物の登場か、何度か会ったことのあるその人物を見間違えるはずもない。

「なまえちゃんこっち!!」

そしてあろうことか木兎さんが呼びつけるものだから、小首を傾げながらもなまえさんが駆けてくる。コートをちらりと見やるも、今この場で起きていることなど露知らず、黒尾さんは真剣な目でボールを追っている。そんな黒尾さんに木兎さんはまたしても言った。

「黒尾ー、なまえちゃん来てるから頑張れよー!!」

あーあ、やめとけばいいのに。恐る恐る黒尾さんを見るとやはり機嫌を損ねているようだった。しかし事実この場にいるなまえさんを見て目を丸くしている。

「木兎さんが色々すみません」

黒尾さんに手を振るなまえさんに謝ると彼女は小さく笑った。

「練習見れたから結果オーライですかね」

あっけらかんと言ってのけたなまえさんに思わず面食らう。こういう人だっただろうか。

「お熱いですね」
「なんかすみません」

申し訳なさそうに肩を竦めるなまえさんの瞳がまっすぐコートに注がれる。優しく見守るその視線の先にいる黒尾さんが生き生きして見えた。

去年の夏休み明けの合宿。各々自主練を終え体育館をあとにするとき、ふと恋愛の話になった。最初は茶々を入れているだけだった黒尾さんに矛先が向くと、「唯一最近話す女子は変な奴だし」とけろりと言った。そのときの黒尾さんはいつものように無表情だったが、横顔が少しだけ笑っているようにも見えた。そう感じたのは俺だけじゃないらしい、本能的勘で木兎さんは早速茶化す。

「その子名前は?」
「あ?なんで言わなきゃなんねえんだよ」
「黒尾の好きな子でしょ?」
「そんなんじゃねー」

いつも飄々とした黒尾さんにこう言わせる女子はどんな人だろうと思ったのを思い出す。それからもなにかにつけてその人の情報を聞き出そうとする木兎さんと、次第にその人と仲を深めているらしい黒尾さん。
全てにおいて鋭そうな黒尾さんでも、自分の気持ちには気付いてないんですね。
何度か言おうとしたその言葉が、どうも黒尾さんだけに当てはまるわけじゃないと知ったのは去年の文化祭だった。

「黒尾の好きな子見に行こうぜ」

と言い出したのは木兎さんで、それに面白がってついて行った先輩に強制的に連れられた。とは言え興味がなかったわけではない。またしても本能的勘でその人を当てた木兎さんは気さくに話し掛けた。その様子に肝を冷やしたものだ。
そして肝心のその人は、思っていたよりずっと普通の人だった。人当たりがよく礼儀正しい物腰からは、とてもじゃないが黒尾さんの言う変な要素は見当たらない。少しだけ意外に思うほど。
そしてその印象は今も変わらない。

「やっぱり私、帰ります」

少しだけ寂しそうな顔をしたなまえさんがコートから目を逸らした。さっきまで黒尾さんの練習が見たかったからちょうどいいと言っていたのに。目を輝かせていたのに。

「黒尾さんも会いたいって言ってましたよ」

俺の言葉に目を丸くするなまえさん。
黒尾さんがどうしてこの人を好きになったのか、今ならなんとなくわかる気がする。黒尾さんでも癒しが欲しくなることがあるのか、それはなんとも言えないにしても。

例えば「彼女が欲しい」とぼやいた先輩の言葉に「黒尾の彼女みたいな」と続いてもなんの違和感もない今。それに対して同意こそしないものの、男は最終的に癒しを求めるのではないかと思う。
そして黒尾さんがこの人を好きになった理由。俺はさっき、その本質に触れた気がする。

「自分のことでからかわれたこと言っても『練習見れたからいい』って言う人、そうそういないと思いますけどね」

ぽつりと呟いたその一言に「え、赤葦なにその話」と説明を求められる。

「なまえさんって懐広いですよねって話です」

はぐらかしたものの、それで十分だったようだ。
どうやらあの一言は俺だけが聞いていたらしい。夏の日差しに反射したキラキラ輝く瞳も、慈愛に満ちた横顔も。心打たれるものがなかったわけではない。それでも、あの人があんな顔をするのは黒尾さんのためだと知っているから、それ以上なにも思わないだけ。
強いて言うなら「俺も癒し欲しいな」と思ったことだけは否定しないでおく。



back
- ナノ -