黒尾視点で駆け抜ける

煙草の煙とアルコールの匂いとわざとらしいほど羽目を外した笑い声が響く。二年目、迎える側となった新歓コンパ。
流石に慣れてきた顔ぶれに、ちらほらと新しい顔。なんとなく新鮮に思いながらも形式だけのグラスを煽った。

「黒尾先輩なんか飲みますか?」

いつの間にか隣に座っていた新しい顔ぶれの女子がメニューを差し出したのでそれを横から覗き込む。その様子に何を勘違いしたのか、酒が大分回った先輩が目敏く野次を飛ばしてきた。

「そういや黒尾、彼女と会ってないんだろー?乗り換えちまえよ」

それに便乗する声をいなしながら、「俺烏龍茶でいいや」と隣の女子に伝える。頬を赤く染めながらもすぐ様注文を入れてくれる隣の女子はよくできた奴だと思う。

話は恒例の好きなタイプの異性について切り替わる。酒の勢いも相俟ってか、芸能人の名前だったものが今この場にいる人物の名前に変わり、「イケメン」やら「巨乳」やらバカに素直なものに変わる。それを笑いながらも隣の女子の番になる。

「背が高くて落ち着いてる人がいいです」

言い淀みながらも、ハッキリ言ったその女子に対しまたしても面白がった先輩が「黒尾みたいな!?」と間髪入れずに茶々を入れてくる。それに動揺しつつも、隣の女子はこっくりと頷いた。
素直な好意を足蹴にするほど俺も嫌な男ではないと思う。曖昧に笑って濁すと、今度は俺に矛先が向く。

「そういう黒尾は?」

好きなタイプ。
当たり前に可愛い子も美人も好きだしスタイルのいい女がいれば目で追うのは男として抗えない性だ。それでも思い浮かぶのは。

「自分より他人を優先するような馬鹿な女」

しかしその返答は間違いだったかも知れない。言ったあとで気付いたのは、それがまるで自分に黙って従うような女が好きだと明言するような自分こそが馬鹿な男だと言っているようなものということ。

「うわ、お前ひでえな」

その失言を撤回するのも面倒になって、敢えて嫌な男のふりを通す。それでも隣の女は笑って聞いていた。




会もお開きとなり、二次会に行く奴は放って酔い潰れた先輩やどうしていいかわからない後輩をさっさとタクシーに放り込む。俺も帰る気でいたので、例のその女子を駅まで送り届けることを任された。幸い終電までまだ余裕がある。夜の空気は春先にしてはまだ寒い。

「最初だから緊張したろ」

無言で歩くのも気まずいので、そこは先輩である俺が率先して和ませる。突然話し掛けられたその女子は肩を大袈裟に揺らしながら、こくりと頷いた。

「先輩優しいですね」
「俺が?」
「はい、先輩は優しいです」
「そりゃどうも」

君を送り届けるのは頼まれたからだけど、とは口が裂けても言えそうにない。調子が狂うとは思いつつ、ここはいい先輩でいるのが得策な気がした。

「あの、」

上擦った声に見下ろすと、あどけない少女の俯いたつむじが見える。どこかで見た気がする、いや何度も見てきた光景がふと過る。
あれ烏龍ハイとかじゃなかったよな、俺も酔っているのかもしれない。

「先輩、彼女いるんですよね?」

言うと思った。まさかこのタイミングで来るとは思わなかったが。
あいつを彼女と呼ぶには違う気がした。というより、俺が未だ彼氏の座に居座るのが違う気がした。何度も泣かせた挙げ句、置いてきた女のこと。
頷くのも憚られ黙っているのを肯定と捉えたのか、目の前の彼女は続けた。

「ずっと会ってないって聞きました」
「それは否定しねえな」
「だったら」

次に何を言い出すかは想像するに易い。そして俺がそれにどう返すかも、きっとわかっている。

「私じゃだめですか?」

男にとってこれ以上の殺し文句はない。想われて嫌だと思う男はそういないだろう。それでも。

「俺のどこを見て好きなのかわかんねえな」

正直、会って間もない。そうでなくとも申し訳ないがこの子を好きになることはないだろう。それでも俺のどこがそんなにいい。

「全部です」
「俺は君に全部知ってもらった覚えねえけど」
「でも会った瞬間ビビっときました」
「あー、一目惚れ的な?」

自分で言ってて恥ずかしくないのかということを聞くが、今の少女にそんなことを考える様子はないらしい。大きく頷くその仕草が可愛らしいことは認める。というかあいつもこれくらい素直だったらもっと可愛いんだけどな、決して可愛いとは言えない強がりなあいつを思い出す。だけどああいうところが堪らなく愛しい。
馬鹿みてえだな、乗り換えたら楽だとわかっている。あいつもそれを願って背中を押した。その意図を知っても尚。

「わりいな、俺あいつのこと好きなんだわ」

いい先輩でいようとしたものの、いい男にはなれそうになかった。


二年で同じクラスになったとき、特に印象というのはなかった。どこにでもいる普通の奴。べらべら喋る女は好みじゃない、自分の意思を強く持たない辺り無害な奴としか思っていなかった。そのみょうじさんもその辺の女子高生らしく恋愛は謳歌しているらしい、男が入れ替わり立ち替わりしている噂も聞いていた。見た目によらずやるな、とは思っていたがその見方が180度変わったのは夏休みが明けた頃だった。

話したのは多分、あの時が初めてだった。訳のわからないことを真顔で言い出したあいつのことをどこにでもいる女とは思わなかった。話せば話すほどわかったのは、なるほどこいつはその辺の男じゃ手に負えねえわということ。少なくとも先入観ありきの好意なら、それに応えられるほどこいつも器用ではなさそうだ。その日からただなんとなくみょうじなまえという人物を知りたくなった。それが恋愛感情だと気付いた頃には、俺となまえの間の距離は近くなったものの代わりに壊しようのない壁ができていた。

このまま悪友で終わるのも悪くはない、それでも誰にも取られたくない。その欲の狭間で揺れ動いていたのが何も自分だけではないと知ったのは春のこと。そういえば一昨年の今頃だったと思い出す。こいつも俺のこと好きなんじゃねえかと思う節は多々あった。そうではないとしたら思わせ振りにも程がある。だが俺はなまえがそんなに器用な女ではないと近くで見てきたのだから知っている。そういうところに惚れたのだから当然だ。

付き合ってからもよくわからないことで悩んだり怒ったりするあいつを面倒だと思ったことはなかった。ただ愛しさが込み上げる。そばにいれさえすればいいと思っていたとき、今の大学から推薦が来た。

いつ切り出そうか、そしてどうすることが正しいか、機会を窺ったものの先に切り出したのはあいつの方だった。別れるという選択肢は選びたくなかったが、二学期を境に浮かない顔をするようになったなまえを見て解放してやることがなまえの幸せだと頭ではわかっていた。
距離ごと愛してやる自信はある。だが待たされる側はどうだ。それを強要するのは酷じゃないのか。
そんなことはわかりきっていたが、だからと言って別れを告げたときに泣くのも見たくない。だったら地元から離れることを辞めようかとも思ったが、それはそれでなまえに引け目を感じさせるのも目に見えている。そこで出した答えは中途半端なものだったように思う。最低な男だと振られるならそれも覚悟の上だったが、あいつはそれすら受け入れた。


「彼女さん、素敵な人なんですね」

小さく呟くその声に思わず笑いが漏れる。
たぶん君が想ってるよりあいつは普通の奴だし特別になにかあるわけでもない。少しおかしくて気にしいで馬鹿にお人好しでどうしようもない、だけどこの上なく愛しい奴。ただそれだけ。

「素敵かって言われると微妙だな」
「でも会えなくても好きなんですね」

それは少し違うんじゃねえかな。だからと言ってわざわざ俺達の事情を知らない奴にまで皆まで言うには、俺達の間にある事情は複雑すぎる。他人にはとてもじゃないがわかりかねる決断だと思う。
ああやって、自分達の前に立ち塞がる進路に平伏して別れる男女は少なくないだろう。離れても一緒だよ、なんて笑っておいて距離と時間と共にあっさり気持ちごとどこかに追いやる奴だってこの世にはごまんといる。俺らはそれをしなかった。
俺があいつを置いてきた理由も、あいつが俺を手放そうとした理由も、それがお互い相手を思いやってのことならば尚更距離も時間も愛しく思う。あいつが今頃どうしているかは知らない。今頃好きな奴でも出来ているかもしれない。俺とのことを青春のいい思い出くらいに思っていれば、今も地元で笑って暮らしているならそれでいい。別にいい。

「彼女さんが浮気してるかもって不安になったりしないんですか」
「あいつが?それはねえな」

呆れるくらいのお人好しで不器用なあいつに、それができるはずもない。実際にそうなっていたとしても、それを咎める資格が俺にあるはずもない。
それに。

「俺はあいつを信じてる」

あいつがどれだけ他人に気を遣う奴だろうと、あいつに意思がないわけじゃない。だからこそあいつが悩む姿を見てきた。俺のことで悩むのならそれは不本意だが、それでもあっさり俺を捨てられるためのあの決断だ。だが確信はある。
あいつと俺が過ごした時間は、別の誰かに容易く代えられるものじゃないと。

「まあもしあいつが浮気しててもかっさらいに行くだけだしな」

あいつがフラフラしているような奴だったらそもそも置いてなんか行かない。もっと言うと好きにもなってない。だからあいつじゃなきゃいけない理由がある。

「大学入ったばっかだろ、俺以外に他にいい奴見つけるんだな」

そう言って俺を見上げた瞳はキラリと光る。月がぽっこり浮かんでいるように見えたその瞳がじわりと濡れていることに気付いて、敢えて知らないふりを通すことこそが優しさだろう。振られた男からの情けほど惨めなものはない。


駅まで送り届けた帰り。漸く見慣れた景色の中に、地元の影が重なった。幼いあいつが記憶の中で百面相しているのを小さく笑うとそのまま弾けるようにあいつは消えた。
寂しさを感じないわけではない。だけど声を聞いたら余計につらくなる。寂しくなる。あいつもそうに違いない。

全部終わるまで待ってろ。

あの頃言えなかった言葉は、俺の中で今も大切に刻まれている。



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