39

黒尾が旅立つ日のことも時間も夜久が教えてくれた。卒業と共に私達も終わったのだと言い聞かせていたけれど、いざその日になるとなんだか落ち着かない。
言いたいことならもう言った。聞きたいことも聞けた。それだけで充分だ。これ以上黒尾の重荷になるのはごめんだし、別れるとは言われてはいないものの既に元カノのようなものである。そんな女が去り際に来たらなかなか鬱陶しいに違いない。
そう思っていた私の家を訪ねて来たのは友人だった。

「え、なにどうしたの?」
「いいから来て」

そのまま腕を掴まれて、部屋着につっかけサンダルのまま連れ出されそうになったのでなんとなく言いたいことはわかった。だけどさすがにこのまま行くなんて嫌だ。黒尾の思い出に最後に残るのがこれなんてありえない。

「ちょっと待って5分待って」
「なに言ってんの。てかなんで準備してないの?黒尾もうちょっとでいなくなるんだよ」

行くつもりなんてなかった。だけど。

「大丈夫、絶対間に合わせる」

そう言って一度家の中に引っ込む。思えばいつも私はこうだった。いつも誰かに後押しされてばかりで、だけど裏を返せばみんなから背中を押してもらえる恋だった。きっと夜久から私が来ていないことを聞いて駆けつけてきたのだろう。最後までこんなんでごめんなさい。だけどいつもありがとう。自分勝手なことを思いながら家を出る。鬼の形相をした友人と共に駅まで走った。
未練がましい女だと思われても構わない。なんで今更そんなこと気にしてたんだろう。本当は誰より会いたいくせに。
自分に素直になってみたら思いの外足取りは軽い。
ご両親やバレー部に囲まれている黒尾を見つけて思わず名前を叫んだ。

「来るの遅えよ」

ぜえぜえ息を切らした私を馬鹿にするみたいに笑うくせに優しく頭を撫でる手のひらは本当に裏腹で。相変わらずだなあと思う。

「来ねえかと思ったじゃねえか」
「うん、行かないつもりだった」
「おい、ちょっと傷つくだろうが」
「でも」

心臓が早鐘を打つ。終わったとは言え、かつては想い合った二人だ。かつては?いやたぶん、今も想い合ってる。

「やっぱり会いたくて来た」

酸素が足りなくなった脳は馬鹿みたいに素直な言葉を吐き出した。だけど微塵も後悔なんてしない。目を丸くした黒尾が小さく笑って、そのまま一度だけぎゅっと抱き寄せる。一瞬のことだったけれど、それでもいい。それでいい。嬉しかったしちゃんと伝わった。

「がんばれよ」

そうやって笑う黒尾を目に焼き付けようと、熱くなる目頭を無視した。滲んだ視界じゃ黒尾がぼやけて仕方なかったけれど、私が最後に見る黒尾はどんな黒尾だっていい。最後に会えた、それだけでいい。

「黒尾もね」

目尻に溜まった涙を黒尾が気付かないわけがないのだけれど、意地でも笑って送り出したくて、溢れそうになる涙を拭わないまま言った。黒尾がみんなに手を振り背を向けてから、待ち焦がれたように遂に頬を伝う。そのお陰で随分とクリアな視界で黒尾の背中を見送ることができた。だからこそ、余計に。

気だるそうに歩く長身の背中に思わず「黒尾!今までほんとにありがとう」と叫ぶと一度だけ振り返った。

「泣いてんじゃねえよばーか」

少し離れた距離なのに、頬をキラリと伝う涙が見えたのだろう。最後くらい笑っていたい。黒尾も笑っていてほしい。その気持ちが伝わっていたのか、黒尾だってなにか言いたそうな顔をしていたくせに無理に笑う。
本当はそんな風に笑ってほしいわけじゃない。だけど最後くらい、いいじゃないか。だってそれすらもお互いがお互いを好きでいた証なのだから。
黒尾の背中が見えなくなるまで、どれだけ頬を流れ落ちても絶対に涙は拭わなかった。


「ほら、もうみょうじ涙拭け」

呆れながら夜久が差し出したティッシュを引ったくって、止まりそうにない涙を目頭で塞き止めるようにティッシュを押し当てる。しばらくうーとかあーとか言葉にならない言葉を発していると、控えめに背中を叩かれた。友人のとも違うなんとも言えない弱い力に違和感を覚えて顔を上げると、研磨くんが気まずそうに私の背中を叩いていた。

「うわ、ごめん研磨くん。ありがとう」
「いや、クロが」

言い淀む研磨くんの言葉を待っていると、観念したように声を発した。

「あいつ俺の前で絶対泣かないと思うから、俺がいなくなったらなまえのことよろしくって」

ああもう。どこまでも見透かされていて、結局最後まで心配されている。自分がいなくなったあとのことまでも。その優しさが余計に涙腺を刺激して、またしても私は泣きじゃくった。

黒尾がよく送ってくれた家までの帰り道、切なくなる思いと共にたくさんの思い出が走馬灯のように駆け巡る。
一巡りした思い出の中、私と黒尾は確かに想い合っていた。そんなこと確かめるまでもない。自分がいなくなったらあいつ泣くからよろしくなって、ばかじゃないの。絶対に泣くもんか。泣きたくなる思いを押し込めてそう誓った。
もう黒尾に心配されるような私じゃだめだ。だって黒尾はもういない。旅立つ背中をちゃんと見送ったじゃないか。
それでも込み上げてきた涙を拳でぐいっと拭い、また溢れそうになる涙を溢さないように空を見上げる。
離れていても、同じ空の下。
そんなありきたりな言葉を思い出して、馬鹿げていると思う反面ものすごく安心した。同じ時間はもう戻らない。だけど思い出は忘れたくても忘れられないくらいこびりついて離れない。もう戻らない青春にしがみつくより、かけがえのない思い出を糧に私は歩いていくと誰に言うでもなく誓った。



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