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夏休み終了二日前。まだ少しだけ残っている宿題を睨み付けていると携帯が鳴った。黒尾からのメッセージ受信音をいじらしく変えてみた私は、その受信音に大きく肩を揺らした。部屋で一人でいたのが幸いである。

《お前宿題終わった?》

まさか、とも思うけれど黒尾はこの夏休み部活に精を出していたのだ。終わっていなくても仕方ないのかもしれない。

《まだ全部は終わってない》《今やってる》

と返すとすぐに《ちょっと見して》と返信が来る。やっぱりな、と思ったけれど、黒尾がこうして私を頼るのは珍しいため少しだけ嬉しくなる。いつも私が黒尾を頼ってばかりいたからだ。

《夜久に怒られるんじゃない?》
と返そうとすると
《夜久には言うなよ》
と先に返ってきたので黒尾はエスパーなのかもしれないと少しだけ思った。

《写メって送ればいいの?》
《明日俺ん家来て》

と返ってきた言葉に思わず背筋を伸ばした。黒尾の家にお邪魔するのは初めてだ。黒尾のお母さんになんて挨拶したらいいんだろう。それより、家ってちょっとそういうこと?と一人思考を巡らせる。そりゃあ付き合ってからとうに四ヶ月は経っている。早い子だと付き合って一ヶ月未満で事を済ませた子もいるわけだし。いつか木兎さんから送られてきた半裸の黒尾を思い出しつつ、いけない方向に傾いた思考に気付き何考えてるんだろう私、と頭を振った。
明日は夏休み最終日である。そんなことしている余裕はない。宿題終わらせなきゃいけないんだから、と自分を律しながら明日黒尾に見せるために目の前の宿題を片付ける。それでも一度傾いた思考は簡単に集中力を取り戻してはくれない。もう諦めて寝ようかとも思ったけれど、それはそれで違う方向に意識が持っていかれるのでまた机に向かう、というのを繰り返しているうちに朝になっていた。




「何お前、寝てねえの?」

会うなり青々と隈を作っている私を見て黒尾が口元を引くつかせて言った。変な想像してましたなんて言った日には爆笑ならまだいいものの気持ち悪がられて振られる気しかしない。

「最近おもしろいアプリ取っちゃって」

と強ち嘘でもないことを言うと「宿題終わってねえくせに随分余裕だな」と笑われた。宿題終わってないのは黒尾もじゃん、とは言えなかった。


黒尾の家に着くと黒尾のお母さんが出迎えてくれた。優しそうであんまり黒尾には似ていない気がしたけれど、どことなく髪質とかが似ている気がする。勿論黒尾みたいに尖った頭はしていないけれど。

「鉄朗くんとお付き合いさせていただいてますみょうじなまえです」

彼氏の親と会うどころか男子の家に上がること自体初めてである。緊張からか早口になってしまったけれど、黒尾のお母さんは優しく「あらまあ」なんて言っている。本当に優しそうなお母さんでよかった。予め用意してきた手土産を渡すととても喜んでくれた。昨日悩んだことの一つはこうして事なきを得たのだった。

問題は、ここからである。
黒尾の部屋の真ん中にある小さなテーブルを挟んで向かい合って座る。当然黒尾は真剣な様子で問題を解いたり私の解答を見て理解しながらシャープペンシルを走らせる。
杞憂に終わったか、と思うと同時に自分の宿題が終わっていないことを思い出し慌てて問題に取りかかった。

黒尾のお母さんがドア越しに出掛けてくると告げたのは、それから一時間ほど経ってからだった。なまえちゃん送っていくのよ、冷蔵庫にプリンあるから二人で食べなさい、と言い残し、玄関の扉が閉まる音がする。
相変わらず黒尾は集中しているのか一切顔色を変えていない。やっぱり私の考えすぎか、と思っていると突然黒尾が顔を上げた。

「え、なに」
「お前こそなに」

怪訝そうにこちらを見た黒尾にそんなに黒尾のことを見ていたのかと気付き「なんでもない」と返す。ますます怪しくなるのはわかっている。

「黒尾のお母さん優しそうだね」
「そうか?」
「うん、うちのお母さん正月に娘のこと叩き出すもん」
「それはお前がだらしねえからだろ」

さすがに言葉を詰まらせる。ぐうの音も出ない。
黒尾のお母さんも黒尾を叱ることがあるのかな、とふと思う。

「俺も寝癖直して行けって言われるけど」
「だってそれ直んないんでしょ」
「そこなんだよな」

二人でお母さんに怒られたエピソードを話し合っているうちに、さっきまで私を支配していた緊張が薄れていくのを感じた。やっぱり黒尾といると落ち着く。そう実感する。
二人で雑談も交えながら宿題を終えていくうちに、傾いてきた夏の終わりの日差しが思うよりずっと柔らかくて気付くと意識を手離していた。


よく授業中に寝ている人が突然ビクッとして笑ってしまうことがあるけれど、あれはずっと同じ体勢で寝ていると血流が滞るから体が勝手に動くのだとなにかで知った。その現象がまさしく今私をうたた寝から覚ましたのだ。何故か大事そうに握っているシャープペンシルに気付いて、私は宿題の途中だったと思い出す。それも黒尾の家で。
ハッとして体を起こすと「よだれついてる」と黒尾がこちらを見て言った。慌てて口元を隠すと「嘘だけどな」とくつくつと笑ったので思わず小突く。

「それほんと笑えないから」
「悪かったって」

時計を確認するともう夕方と呼んでもいい時間である。八月末日とは言ってもまだ日は長い。

「黒尾宿題終わった?」
「もうちょい。呑気に寝てたお前は?」
「たぶんもうちょい」

仕切り直してもう一度問題にとりかかる。一度眠ったため頭が冴えたのか、さっきまで賽の瓦のように思えていた宿題はすぐに終わった。

「終わったー!疲れたー」

安堵からか、テーブルにくたっと体を委ねた。

「さっきまで寝てたくせに何が疲れただ、笑わせんな」
「疲れたもんは疲れたの」
「ハイハイお疲れ」

そう言って突っ伏している私の頭を優しく撫でる黒尾の手が心地よい。また眠りの世界に引きずり込まれそうになる。

「なんかそれ眠くなる」
「お前よく初めて来た男の家でぐっすり寝れるな」

その言葉に昨晩までの葛藤を思い出す。これじゃ襲ってくださいと言っているようなものである。
別に黒尾とそういうことをしたくないわけではない。寧ろ初めてが好きな人だったら、それ以上の幸せはないと思う。心の準備はとうにできているのだけれど、夏休み中に少し太ったことや変な日焼けの仕方をしてしまったのが気になって仕方ない。
黒尾も宿題を終えたのか私の隣に移動してきた。突然のことに突っ伏していた体を跳ねるように起こす。

「なんだよ」

そんな挙動不審の私に黒尾は怪訝な顔で目線を合わす。「なんでもない」と言いつつ、決してリラックスできる状況ではないため膝の上でぎゅっと拳を握った。

「いいよお前さっきのままで、手退けろ」

そう言って私の両手を掴んでそのまま太ももの上に頭を乗せてきた。

「なにしてんの」
「うっせ。俺も眠い」

そのまま小さくあくびをして目を閉じた黒尾。なんだか大きすぎる猫に甘えられている気分になる。それも普段は尻尾なんて立てちゃって、ちらっとこっちを見ては小馬鹿にしたみたいに逃げていくような猫。

「黒尾寝るの?」
「おー」
「髪触っていい?」
「おー」
「聞いてる?」
「おー」
「聞いてないでしょ」
「おー」

こんなにだらっとしている黒尾を見るのは初めてで、おもしろいのと可愛いのが混在して笑いを堪えるので必死になる。恐る恐るつんつんした髪に指を通すと思いの外柔らかい。しかも絡まってない。予想外のことに息を呑む。

「なんかそれいいわ。お前の気持ちわかった」
「でしょ?」

誉められたわけでもないのに少し嬉しくなって調子に乗ってずっと撫でていたら、やがて静かに寝息を立てた。本当に寝ているのだろうか、ふと思って頬をつついてみるも黒尾は起きなかった。
思えばこの一ヶ月、黒尾にとっては好きなことだとしても部活三昧合宿三昧で疲れていたのだろう。それでもこうして会ってくれたことが嬉しくなる。
本当は知っていたのだ。黒尾は別に私がいなくても宿題なんてさっさと終わらせること。何だかんだで私が会いたいって言い出せないこともわかっていたから、わざわざ会う口実を作ってくれたことも。
ありがとうと、お疲れさま。二つの意味で労うように、穏やかに眠る黒尾の髪を撫でる。立場が逆転したみたいで嬉しかったし、黒尾にもこうして甘えるときがあるのだと知って、そしてそれが私に向けられていることに充足感を抱いた夏の終わりだった。



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