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夏休みに入るも黒尾は合宿漬けらしい。五月に行った宮城で出会った“ゴミ捨て場の決戦”とやらに燃えているらしい。インハイ予選の応援で見た黒尾を思い出すと、今もどこかの学校で爽やかな汗を流しているであろう黒尾を想像して胸がいっぱいになる。
とは言ったものの。
「もうすぐ花火大会だねー」
ファミレスに貼ってあったチラシを見て友人がぽつりと溢した。その言葉に思わず大きく肩を揺らす。
「え、なに。どうしたの」
「いやなんでもない」
クーラーが効いているとは言え、窓際の席は僅かばかり直射日光にあてられる。結露したグラスの表面を拭っていると興味深そうに身を乗り出してきた。
「黒尾と行かないの?」
「たぶん無理だと思う。合宿ばっかりみたいだし」
そうでなくとも花火大会の日は春高予選の前だ。黒尾も疲れるだろう。
「聞くだけ聞いてみればいいじゃん」
「いいよ、気遣わせたくないし」
わざとらしくストローからメロンソーダを吸っていると友人が溜め息を吐く。
「なまえさあ、黒尾に甘えないの?」
呆れたように言う友人にそういえばと思考を巡らせる。いつも無意識には甘えているのかもしれないけれど、いざ甘えているかと言われるとそもそも甘えるってなんなのかと考える。少なくとも甘え方がわかっていない時点で甘えていないのかもしれない。わからないけれど。
「黒尾って甘えられるの好きそうじゃん」
「そうかな」
「勝手なイメージだけど」
確かに黒尾は面倒見がいいし包容力があると思う。だからといって我儘を言って黒尾の負担になるのは嫌だった。
「そうやって言ってるけどほんとは黒尾と行きたいくせに」
ニヤリと言ってのけた友人に思わず言葉を詰まらせる。その時点で図星だと言っているようなものだけど、黒尾の頑張っているものの重荷にはなりたくないと思ってしまう。
そういえば。
去年の今頃付き合っていた人から花火に誘われても断ったことを思い出した。夏休みに一度も会わなかったことも破局の原因だったのではと思ったものだ。
夏休み明けに「お前から全然連絡してこないから合宿先の女の子といい感じになったし別れてほしい」なんて黒尾から言われたらどうしようと考えた。考え直せ私。言ってみるだけいいじゃないか。そう思いながらグラスに残っていた溶けかけの氷を噛み砕いた。
家に帰って携帯を確認すると黒尾からメッセージが届いていた。合宿中なのに嬉しいな、と思いつつ確認すると送ってきたのはどうやら黒尾ではなさそうだ。たぶん木兎さんだろう。
《イケメンな黒尾あげる!》と送られてきたメッセージのあとに風呂場の脱衣場らしき場所でシャツの裾を胸元までたくしあげている黒尾の写真が添えられている。突然撮られたのか驚いている黒尾の表情も新鮮だけど何より腹筋に胸が高鳴る。
ありがとうございますご馳走さまです、と少し変態じみたことを思うと同時に合宿楽しんでるんだろうな、と思うと花火大会に一緒に行きたいなんて余計に言えなくなった。
《楽しそうですね》と応援している風なスタンプも添えて返信するとすぐにまたメッセージを受信する。今度は黒尾だった。
《さっきの俺じゃねえから》《木兎だから》
《わかってるよ》
と返信を送る。そしてすぐにまた携帯が鳴る。今度は電話だった。
「今大丈夫か」
「うん」
久しぶりに聞く黒尾の声は電話越しだと更にむず痒く感じる。余計に会いたくなってしまった。
「合宿お疲れさま」
「おう」
「疲れてんじゃないの?」
「なんで?」
「なんとなく」
私が遊び歩いているときに黒尾は真剣に部活に取り組んでいる。そんな引け目を感じてのことだったけれど、黒尾は見透かしたように続けた。
「お前の声聞きたくなってさ」
ぎゅう、っと心臓を掴まれたみたいな感覚を覚える。私も、と答えると喉を鳴らして笑う黒尾の声がする。
「なに笑ってんの」
「いや別に?珍しく素直じゃねえか」
こんなの、花火行こう、って言うのに比べれば大したことない。だから言えたのだ。だけどそのとき、友人の言葉を思い出した。甘えても、いいのかな。
花火のことは言わずに、その日は明いているか訊ねてみた。
「あー、部活だけど」
黒尾の返事にあからさまに肩を落とす。これが電話でよかったと心から思う。
「部活終わってからでいいか?」
続いた言葉に思わず息を飲む。落胆したり嬉しくなったり忙しいなと我ながら思った。
「花火だろ」
「なんでわかったの?」
「なんとなく」
なんとなくでわかりあえている気がして緩む頬を抑えようと唇を噛む。
「お疲れかとは思いますが一緒に行きたいです」
「まあ俺から誘うつもりだったけどな」
まさかお前から言ってくると思わなかった、そう続けた黒尾の声が電話越しでもわかるほど弾んでいて、甘えてもよかったのだと胸を撫で下ろした。
「お前さ」
「うん」
「俺に気遣うなっつったろ」
それは確か付き合う前に言われたことだと思い出す。今、私と黒尾の声を繋ぐ携帯にぶら下がっているお揃いのストラップ。修学旅行を思い出した。
「さっきみたいに甘えていいんだからな」
じーんとその言葉を噛み締めていると、やがて電話越しに「黒尾ーババ抜きしようぜー」なんて木兎さんの声が聞こえてくる。思わずそれに笑ってしまったけれど、さっきの黒尾の言葉が吹き飛んでしまったわけではない。
「木兎うるせえ、今行くから待ってろ」
そんな声が聞こえて更におかしくて、今度は声を上げて笑う。
「電話ありがとう、ババ抜きしてきなよ」
「ったく、木兎ぜってー泣かす」
「がんばって」
「おう」
「ババ抜きもだけど合宿も」
「なんかお前今日すげえ可愛いんだけどどうした」
「うるさいな、切るよ」
おやすみ、とどちらからともなく告げて切れた電話に、本当はもう少し話したかったと思ったけれどきりがないこともわかっている。代わりに友人に《花火黒尾と行けることになった!》と報告だけして携帯を閉じた。
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