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気持ちを自覚したからといって黒尾に話しかける勇気は出なかった。寧ろ自覚したからこそ、拒まれるのが怖かった。相変わらずこちらを見もしない黒尾の後頭部を見ては切なくもなり、だけどこのまま何も期待せずにひっそり想うのも悪くない気がした。半年の間に黒尾にはたくさん世話になった。その思い出だけあれば、もう十分だ。何も求めない。その方がきっと、傷つかない。

元カレと帰って三日ほど過ぎた頃、日直で一人残って日誌を書いていると教室の扉が開く。入ってきたのは黒尾だった。お互い気まずいな、というのが顔に出ていたんだと思う。軽く声を掛けてすぐ沈黙。話しかけても、いいのかな。動向を伺っていると黒尾の方から話しかけてきた。

「お前一人?」
「うん、野球部忙しいみたいだから先行っていいよって帰した」

私と同じく日直だった野球部の男子は「悪いみょうじ、恩に着る」なんて大層なことを言っていったけど、黒尾と二人になれるならツイてるのかもしれないなんて思った。

「黒尾は?部活どうしたの」
「体育館点検だから今日休み」
「なのに残ってんの?」
「新年度だから部長ミーティング」

一週間以上ぶりの会話はぎこちなくて、必要最低限しか話していないのに久しぶりに話せたことが嬉しいと思う。「お疲れ」と声を掛けると「お前もな」と返される。それだけで嬉しい。こうして会話してみると、やっぱり私は黒尾のことが好きなんだと自覚せずにはいられない。だからといってどうするつもりもないけれど。
忘れ物でもしたのか、机の中をごそごそ漁ったあと黒尾は扉に向かう。帰るのかな、期待しないとは言ったけど、できることならもう少し話したいと思う。恋をする女の気持ちは複雑だ、という言葉の意味を身をもって知った。日誌を書いている手を止めないまま一人悶々としていると黒尾が声を掛けてきた。

「なあ」

顔を上げるも黒尾は私の方を見ていなかった。肝心なとき、黒尾はいつも私を見ていない。

「元カレとより戻したのか?」

少しの沈黙のあと続いた言葉に思わず素っ頓狂な声を上げた。相変わらずこちらを見もしない黒尾の後頭部に「戻してないよ」と返す。

「じゃあこの前なんで一緒に帰ってたんだよ」

この前、と言われつい三日ほど前のことを言っているのだと気付いた。

「なんで知ってるの?」
「体育館から見えた」

だとしても、なんでそんなこと聞いてくるんだろう。これ以上、期待するようなこと、言わないでほしい。

「黒尾には関係ない」

どうして、こういうとき私は素直になれないんだろう。もう少し可愛げのある言い方もあるはずなのに、私は後悔で折れんばかりにシャーペンを握りしめる。とっくに日誌なんて書き終わってる。だけど黒尾より先にこの場を立ち去る勇気はない。唇を噛み締めて俯いていると黒尾がぼそりと呟いた。

「そうだよな、悪い」

こちらを見ていない黒尾の顔なんて当然私からは見えない。だけど今、黒尾がこの前みたく苦しそうな顔をしている。そんな気がした。立ち去ろうとする黒尾の背中を見て「このままじゃだめだ」と頭の中で警報が鳴る。
どうせもう友達に戻れない、だとしたら想いを告げるくらい、いいんじゃないか。一瞬のその閃きが全身を掻き立てた。

「待って!」

自分でも驚くくらい大きな声で呼び止めて、気付くと立ち上がり駆け出した私は黒尾の腕を掴んでいた。行かないで、ちゃんと聞いてほしいことがある。その一心だった。振り向いた黒尾は不思議そうに私を見下ろしていた。

「なんでいっつもそういうこと言うの?なんで期待させるようなことするの?私勘違いするじゃん」

黒尾はいつも肝心なときに私を見ないし、肝心な言葉はいつもくれない。だけどそれは私だって、同じ。肝心な自分の気持ちにはいつも見ないふりをしてた。肝心なときにいつも黒尾の気持ちを確認していなかった。そうやって黒尾がくれる優しさや言葉や行動に甘んじた結果がきっと今の私達の関係だ。
もし、もしも。黒尾の言葉が自惚れじゃないとしたら。
肝心なことを言わせなかったのは私なんじゃないだろうか。
私がいつも肝心なことから目を逸らしていたから黒尾は何も言えなかったんじゃないだろうか。この前だって、きっとそう。

「黒尾は私のこと、どう思ってるの?」

期待することで心は平穏を保てる。でもそれは諸刃の剣で、期待の風船が割れたとき跡形も残らず打ち砕かれる。そんなこと、知ってる。
だけどこれは期待なんて不確かなものなんかじゃない、そう確信を持てる。そうじゃなきゃ、なんであんな顔するの。
信じて、それがただの勘違いだったとしても構わない。もう前のように話せなくなったとしても構わない。黒尾が今でも元カノを引きずってたとしても構わない。それも含めて黒尾の気持ちを教えてほしい。私の気持ちも、知ってほしい。

「私は黒尾のこと、好きだよ」

言い終わるや否や、真っ暗になる視界。そして肩や背中を包み込む逞しい腕の感触。苦しい呼吸。頭に大きな手の感触。突然の衝撃でぎゅっと瞑った目を開けると、目の前に肩と黒い髪とその先にある見慣れた廊下。抱き締められてると気づくと同時に、随分近くから聞こえる黒尾の声。

「俺だって好きに決まってんだろうが」

きゅう、っと掴まれたみたく心臓が痛んだ一瞬あとに、止まってた心臓のポンプが押し出したじんわり全身を駆け巡る温かい気持ち。学校で、しかも教室でなんてことしてるんだろう、誰かに見られたらどうしよう、一瞬だけ頭を過ったけれど離さないでほしいとも思う。
もう友達には戻れないと覚悟した。確かにもう戻れない。でももう戻りたくない、一歩先へ、進みたい。だからこの前言えなかったことを、聞いてほしい。

「この前、青春キャンペーンまだやってんの?って聞いたじゃん」

何も答えないけれど私の言葉に耳を傾ける黒尾の広い背中に腕を回した。言え、私。

「付き合ってもらってもいい?」

胸板に額を預けて続く言葉をただ待った。人の耳元で馬鹿にしたみたいに鼻で笑ったくせに、優しく髪を撫でるその行動はまるで裏腹だけど黒尾らしいとも思う。甘い関係になりきれない私達らしいとも思う。

「最初っからそのつもりだけどな」

仕方ねえから付き合ってやるよ、って言った黒尾が優しく笑ってる気がした。私からは黒尾の鎖骨しか見えなくて顔なんて見えないけど、今は私もにやけてるからこのままにしてほしいと思った。



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