21

始業式の次の日、化粧で隠しきれないほど目を腫らした私を見て友人は驚いていた。

「どうしたの、その目」
「昨日映画見て泣いちゃって」

笑って誤魔化したはずなのに、友人はそれ以上何も聞けない、という風に目を逸らした。朝練を終えて教室に入ってきた黒尾は私をチラリと見ることもなく席に着く。それを見て更に胸が痛んだ。
映画を見て泣いた、なんて嘘を吐いたけれど、映画やドラマなんかより現実の方がよっぽど苦しい。それが例えどんなに感動的な話であってもそうなんだと思う。今までこんな風に誰かのためにつらくなったことがあっただろうか。友人と喧嘩してもなんとかなるって思えていた。付き合ってきた人に振られても、その時は傷付いても次の日には気持ちを切り替えられた。なのに黒尾と昨日あったことを思うと、もう二度と前のように話せなくなる気がしてならないしだからといって気持ちを切り替えられそうにもない。だけどどうしていいのかもわからない。こんな気持ちになったのは初めてだ。

黒尾と話さなくなって一週間が過ぎた頃、昼休みに一人になりたくて自販機で買ったコーヒーを飲みながら中庭のベンチに座り込む。黒尾がよく飲んでいるからと飲んでみたコーヒーは今の私の気持ちをそのまま溶かし込んだようにこの上なく苦い。どうしようかな、これ、最後まで飲めるかな。一人で苦い顔をしていると「ねえ、ちょっと」と声を掛けられた。凛とした女性の声に顔を上げると、綺麗な子が私を見下ろしていた。

「え、私?」
「そ、あなた。ちょっといい?」

聞きつつも有無を言わさず私の隣に腰掛けるその女の子に、なんとなく黒尾の影が重なる。利発そうに揃った黒髪と、吸い込まれるように大きな黒目がちの目。自信が伝わってくるような立ち居振舞いについ物怖じしてしまう。

「五組のみょうじなまえでしょ、話してみたかったの」

初対面のくせにいきなりフルネームで呼び捨てされてさすがに気分を害する。だけどどうやら同じ学年らしいその人に、こんなに存在感ある人をどうして今日の今日まで知らなかったのかと首を傾げた。関わりのない人のことはあまり把握していないにしても、自分はどれだけ呑気な奴なのだろう。
反対に特に目立ちもしない私とどうして話したいと思ったのか、この人の考えていることがわからない。口角をきゅっと上げたまま大きな目でまっすぐ見つめてくるその人にたじろぐ。

「鉄ちゃんと付き合ってるって噂どうなったの?最近話してないって聞くけど」

鉄ちゃん。聞き慣れないその響きに首を傾げると、わざとらしく声を荒げた。

「あ、ごめんね。黒尾鉄朗、私の元カレなの。そのときの癖でつい」

黒尾の、元カノ。その言葉に頭をガツンと鈍器で殴られた錯覚を覚えた。いっそほんとに殴られてしまいたかった。そしてそのまま忘れたいほど、聞きたくなかった。

「でもその様子じゃ付き合ってるの嘘だったんだねー、びっくりした」

いちいち大袈裟に反応するその人からは悪意しか感じない。わざとやっている。そう気付いた。なんのつもりかなんて聞くまでもない。牽制だろう。

「付き合ってないからなんなの」

思うより先に出た声は考えられないくらいに静かで自分でも驚いた。そしてそのとき初めて気付いた。私はこの人に嫉妬している。

「別に?ただ聞いただけー。私と別れてから鉄ちゃんあなた以外に噂ないからさ」

たぶん彼、まだ私のこと好きなんじゃないかな。

続いた言葉に耳を塞ぎたくなった。


黒尾は入学したときからその長身と大人っぽい雰囲気で一目置かれる存在だった。関わりのない人のことはあまり興味を持たない私ですら黒尾のことは知っていた。よくクラスの子がかっこいいって言ってる男子だったから嫌でも覚えた。その黒尾に彼女ができたと噂が立ったのは確か、二学期のことだった。一組の美女と付き合ってる、とは聞いていたけれど、知っているだけで興味のなかった黒尾の彼女はもっとどうでもよかった。その噂の人にまさか一年越しに苦しめられるとは、当時の私は思ってもなかっただろう。
二年になって黒尾と同じクラスになって一ヶ月過ぎたあたりに別れたと噂が立ったけれど別れたのはどちらからだったのだろう。知りたいけれど知りたくないとも思う。

文化祭の一日目、そしてクリスマスのカラオケの帰り道のことを思い出した。男は振った相手のことでも引きずるもんだって言ったこと、クリスマスにデートする相手がいなくても部活があるからいいんだって表情なく言った黒尾。あのとき思い出していたのはあの子だったの?全ての辻褄が合ったとき、自分がどこまでも傲りきっていて、そんな自分が恥ずかしくなる。
最初から黒尾の心の中に私なんていなかったんじゃないかって、今更思う。
今までくれていた優しさは私だからじゃなくて、たまたま仲良くなったのが私だったからなんだと気付いたとき、情けなくて仕方なくて予鈴を聞きながらも私はその場から動けなかった。今は教室で黒尾の姿を見るのがつらかった。

黒尾が優しかったのは、私が仲の良い女友達だからで、黒尾はバレー部の主将をやっているくらいだし誰に対しても面倒見のよい人なだけで。黒尾は私の面倒くさがりな部分や内気な面を見つけて、そういう人を放っておけない性格の黒尾はつい世話を焼いてしまっていただけだったのだ。
文化祭の時に肩を抱いたのも、バレンタインに手を繋いだのも、時々頭を撫でてくるのも、黒尾にとっては特別な意味なんてなくて私だけがいちいち過剰に期待してしまっていただけだ。修学旅行の水族館で誘ってきた女の子のことを黒尾はなんて言った?どうしてあのとき私は安心なんてしたんだろう。他人事なんかじゃない、私もあの子と同じかもしれないとどうして思わなかった?

風船のように膨らんだ期待はいつか音を立てて割れてしまうことを知っていたのに、私はいつの間にかパンパンに期待を膨らませてしまっていた。
本鈴が校舎に鳴り響き、さっきまで廊下や教室から溢れていた喧騒が水を打ったような静けさに変わる。期待の風船が割れる音を聞いた。そんな気がした。一人ぼっちになってしまったような気がして涙が勝手に溢れてくるのに、教室に戻れば一人じゃないんだって安心するのはわかっていたのに、私は腰を上げることができない。
どうして勝手に涙が出るのか、どこまでも鈍くなれたらよかった。いつまでも自分の気持ちに見ないふりをしていたかった。
だけどもうどうしようもないほど私は黒尾のことが好きなんだと、気付いてしまった。



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