14

修学旅行三日目は自主行動のため班で動くことになる。当然黒尾と一日を共にするわけだけど、朝に顔を合わせたときもうまく会話ができなかった。

「どうした、寝不足か?」

黒尾が真っ直ぐ見下ろしてきて、その目にはいつものからかう様子は伺えない。

「何でもない、朝ごはん食べすぎただけ」

曖昧に笑うことしかできず、言葉を濁す。本当は、朝食なんて殆ど手をつけていない。昨日の光景が頭から離れなくて、箸が進まないのだ。そして悔しいことに、寝不足なのも本当のことだった。目を閉じるとまぶたの裏で黒尾に恥じらいながら話しかける女の子の後頭部と、それに優しく耳を傾ける屈んだ長身の黒尾の背中ばかりが焼き付いていて、大部屋の隅でたくさんの寝息を聞きながらじっと体を横たえるしかなかった。

「具合悪くなる前にちゃんと言えよ」

と、他にも何か言いたそうな黒尾は私の背中をポンと叩いて夜久達に合流していった。


昼食までは街の散策になる手はずで、案の定女子二人はお土産屋を見つけるなり目を輝かせた。男子も行きたいお店があったのか、少しだけ別れることになった。寝不足で朝食もろくに摂っていない私はさすがに二時間ほど歩き続けた頃に体調が悪くなり、友人に「ごめん、トイレ行ってくる」と断り一人ふらふらとトイレを求め彷徨する。しかし最悪なことにどこのトイレも混んでいて、今すぐに体を駆け巡るもやもやとしたもの全てを吐き出したい私は色んな店を徘徊した。やっと空いていそうなところに出会うも、トイレから出てきた女の子を見やり、またしてもその場から立ち去りたくなってしまった。
昨日の、女の子だった。
音駒の制服を着た、小柄な女の子。間違えるはずもない。だってこんなに頭から離れないのだ。正面から見るその子はあどけなく、もし私が男子だったら守ってやりたい衝動に駆られるであろう雰囲気の子。その子は私を見るなり「あっ、ごめんなさい。次どうぞ」と純粋な瞳で謝る。
この子は私と黒尾の噂を知らないのだろうか。
そう思ったものの、もし噂を知っていたとして、蓋を開けてみれば私と黒尾の間には何もない。だったら、とその子の友人が「黒尾くんのこと誘ってみなよ」と唆すことなど容易に想像できる。寧ろ私は何を高を括っていたのだろう。
そして黒尾とて同じである。別に私に疚しく思う理由など何一つないし、断る理由もなければ寧ろこんなに可愛い女の子から誘われるなんて願ってもみないだろう。

私はその子に作り笑顔を返すのが精一杯で、「大丈夫、もうよくなったみたい」と早口で言ってその場を離れた。
また、全身を真っ黒いものが充満していく。
思い出せばその子は、修学旅行一日目の夜、黒尾と私がエレベーターで別れたあと部屋から出てきた隣のクラスの子だった。あの時、もう少しだけ黒尾との時間を惜しんでいたら、昨日この子は黒尾のことを誘わなかったのではないかと汚い考えが頭を過る。だとしたら何なのだろう。それにしても結局黒尾と私の間に何もないのは変わらないのに。変えればいいのか。でももしそれが、最悪なことに転じたとき、私が見て見ぬふりをしているこの感情は一体どこへ行くのだ。
私はあの子と会った場所から遠ざかった店の、尚且つ空いている店を選んでトイレに駆け込む。朝食をほとんど食べていないのだから出ていくものは何もなかったけれど、少しだけスッキリして友人達と合流しようとした。が。

「やば……」

思わず、声に出して呟いた。
当たり前だが私はこの街の土地勘などない。なのにこんなに遠くに来てしまった。寝不足でぼんやりしていた私は、友人達についていくばかりで先程までどこにいたのかすら見当もつかない。そしてまたしても最悪なことに携帯の充電が切れていた。
どうしよう。こんな何もわからない場所で迷子になってしまった。空いている場所を探してきたため、音駒生はおろか地元民らしき人もまばらである。さっきトイレを借りた店の人に「すみません、私と同じ制服を着た人達見かけませんでしたか?」と声を掛けるも首を横に振った。項垂れている私を見かね、「修学旅行生?」と訊ねられる。

「だったらよく修学旅行生が来てる通りがあるから、そこまで案内してあげようか」

と、にこやかに提案してくれた。「お願いします」と頭を下げると、その人はついてくるよう手招いた。


「どこから来たの?言葉綺麗だね」

と、心細さと体調の悪さが滲み出ている私の気を解そうと、その人は見ず知らずの私に優しく話しかけ続けてくれた。沖縄の海は見たかとか、みんな夏に来たがるが冬のほうが海は綺麗なんだとか、冬でも海に入れると思いがちだが地元の人間でも冬は海に入らないのだとか、そういうことも。
沖縄の人は優しいとよくテレビで聞くけれど、本当だったらしい。目鼻立ちがくっきりした若そうな男性は、柔らかいイントネーションで色んなことを聞かせてくれた。
次第に人通りの多い街に出ると、見知った長身が私を見つけ駆け寄ってきた。

「みょうじ、お前どこ行ってたんだ」

と黒尾は三白眼を更に細めた。これは怒っている、と肩を竦める私を横目で見て、ここまで連れてきてくれたその人は黒尾の背中を叩いた。

「君、彼氏くん?駄目だよ目離しちゃ」

と諭すその人に黒尾は軽くすみません、と謝る。「いや、違うんです」と否定しようとしたけれど、その人はヒラヒラと手を振って「沖縄楽しんで行ってね、あと結婚式には沖縄来てね」と去っていってしまった。「ありがとうございました」と頭を下げた私を一度振り返り、笑顔で手を振る。かっこいいなあ、と呆然とその背中を見つめる私の腕を黒尾が思いっきり引っ張った。

「えっ!?びっくりした、なに!?」
「なに、じゃねーだろ。お前の方こそ勝手にはぐれといてなにちゃっかりナンパされてんだよ」

私をここまで送り届けてくれたあの人の行動がかっこよすぎて忘れていたけれど、珍しく黒尾が本気で怒っている。当たり前だ。

「ナンパじゃないから!あの人、私のことここまで送ってくれたの」
「俺には仲睦まじく歩いてるようにしか見えなかったけど?」

黒尾が不機嫌そうに溢す。それを言うなら私だって黒尾に言いたいことがあるのに。それでも何も言えず唇を噛み締めていると、黒尾が小さく溜め息を吐いた。

「まあそれはいいとして、他に言うことあんだろ」

諭すように私の目を見つめてくる黒尾。ばつが悪くて小さく「迷子になってごめんなさい」と呟くと満足そうに頭を撫でられた。
「わかればいいんだよ」
と俯く私の背中に手を回して人混みに紛れ込む。
暫く私も黒尾も何も言わなかったけれど、黒尾がポツリと呟いた。

「このまま二人で抜けるか」

黒尾が言ったことの意味がわからずに、勢いよく顔を上げると「あー、わり。何でもない」と頬を掻く。喧騒に掻き消されてしまいそうなほど小さかったけれど、私にはハッキリ聞こえた。だけどそれに返す言葉が見当たらない。
昨日のことなんてすっかり頭から抜けてしまうほどには、嬉しかった。はぐれたことよりもまず、私が知らない男の人といたことを咎めた黒尾の目がいつになく真剣だったことも、さっきの言葉も。そこにどんな意味があるのか、期待はいつか風船のように膨らんだあと音を立てて割れてしまうのを知っていたからその先のことは考えずに、ただ私は少しだけ頬を綻ばせていればいい。緩む頬を隠そうと唇を噛んでいる私に気付いて黒尾が長い指で私の額を弾く。

「いった!なにすんの!?」
「うっせえ、にやけんな」

そう言って黒尾はふいっと顔を背けてしまった。そんな黒尾の様子がおかしくて、だけど何だか嬉しくて、黒尾の制服の裾をちょいちょいっと引っ張る。

「何だよ」
「見つけてくれたから何か奢るね」
「いらねーよ別に」
「あ、私ここ見たい」

お構い無しにサーフボードのキーホルダーが置いてある店に勝手に入ると仕方なしについてくる黒尾。

「黒尾って下の名前なんだっけ」
「鉄朗。つーか覚えとけよ」
「ごめん、いっつも名字で呼んでるから」

Tのイニシャルが彫られたストラップを手にレジに向かうと、黒尾が私のイニシャルの彫られたキーホルダーを手についてきた。

「えっ、私の名前覚えてたの」
「なまえ」

不意に真剣な目で見つめられて、いつもより低い声で呼ばれた私の名前。私を表す最も短い言葉として常に私と共に生きてきたその名前が、突然特別な言葉に聞こえてきて心臓が大きく脈打った。

「たりめーだろ。お前と一緒にすんな」

さっきまでの変な空気を一変させるかのように馬鹿にしてきた黒尾。黒尾とこういう空気になったあと、私はいつもどうしていいかわからない。

「てか何で持ってきてんの」
「俺とお揃いだぞ光栄に思え」
「私キーホルダーとかストラップってあんまり好きじゃないんだよね」
「うっせえ、仕方ねえから俺もつけるからお前もつけろ」

並んで会計を済ませ、店を出てその場で交換する。黒尾が器用に携帯につけたのを見て、私もつけた。

「そういやお前、あれまだ持ってんの?」
「あれ?」
「射的の」

思い出して、あー、と声を漏らす。黒尾いわく私に似ているらしいその置物は、机の上で私の勉強をいつも見守っている。

「机に飾ってる」
「あっそ」
「黒尾は?」
「部屋の棚に置いてる」

黒尾にちょっとだけ似てるあの置物と黒尾が同じ空間にいるのを想像したら何となくおもしろかったけれど、黒尾のことだから家族にあげたり玄関に飾ったりしてるのかなあと思っていたから、少しだけ嬉しい。

「あれお前に似てぶっさいくだよな」

黒尾がにやりとして言ったので、悔しくて腕をパシッと叩く。一人で唇を尖らせているとぐーっとお腹が鳴った。恥ずかしくて今度は俯く。

「ったく、なーにが朝ごはん食べすぎたの、だ。全然食ってなかったくせに」

呆れたように笑う黒尾に、朝食時の様子を見られていたのだと知り余計に恥ずかしくなる。

「どうせ昨日ろくに寝てねえんだろ」

ほら、と目の下にできた隈を親指でそっとなぞられる。何で黒尾には私のことがこんなにわかってしまうのだろう。気まずくて何も言えずにいると、黒尾が携帯を取り出して夜久に電話を掛けた。

「あーわりい。今みょうじのこと見つけたばっかだからすぐ合流する」

ほんの小さな嘘を吐いた黒尾の耳元にぶら下がるストラップを見て、お騒がせしている渦中の私は申し訳ないけど少しだけ優越感を覚えた。全く知らない人達が行き交う知らない街で二人だけで漂流している気持ちになったのだ。



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