7日目


 ラジオ体操を終えて荷物をまとめて、おじいちゃんに線香をあげて家を出る。北さんとこにも挨拶しに行ったら信ちゃんは田んぼに行ってるらしくていなかった。相変わらずやなと思いながら、大荷物を抱えたまま田んぼまで行く。見送ってほしいわけやないけど会っておきたかった。

「信ちゃん、私もう行くわ」

 稲の中に埋もれている麦わら帽子目掛けて声を掛けると信ちゃんがゆっくり振り向いた。ここに来て最初に会ったときを思い出した。

「送ってくわ」
「いらん。バス来る」
「ええから乗っていき。もうちょい待ってな」

 相変わらずお尻が痛くなる軽トラの助手席に乗って最寄りの無人駅を目指す。流れていく緑豊かな風景は夏の日差しを受けキラキラと輝いている。
 信ちゃんの田んぼもまた、私がここに来てたったの一週間で穂が出て来週あたり花を咲かせるという。じきにこの広大な土地を金色に染め上げるのだろう。信ちゃんが丁寧に育てた稲がお米になる。毎日のごはんになる。私は米作りのひとときにしか関わらなかったけど、最後まで見届けられないのはちょっと残念だった。

「米できたらナマエんとこにも送るわ」
「いい。買う」
「バイト代や。黙ってもろとけ」
「四日しか働いてないのにもらうのおかしいやろ」
「ええって。ばあさんにも世話になっとるし」

 この土地ではみんなが助け合い、声を掛け合いながらゆったりとした生活を送っている。コンビニも、ファストフード店も、コーヒーチェーン店もないしスーパーでさえめっちゃ遠い。私もここで生きていけるだろうか、助けてもらってばかりではなくて助けてあげられるだろうか。今ここに生きている人たちや、かつてここに生きていた人たちに、何かを返すことはできるだろうか。できるかはわからない、けどやらずにはいられない。私はここが好きだから。なくしたくない場所だから。

「……農家って資格とかいらんの」
「免許は必須やな。大型とか牽引とか危険物とか、あるとええ資格は他にもあるけどとりあえず普通車免許持ってたらええよ。農閑期にでもゆっくり資格取ったらええし」
「……ふーん」
「やる気なったん?」
「微妙」
「まあ卒業して行くとこなかったらうち来たらええ。しごいたるわ」
「絶対他の仕事見つけてくるわ」
「ははは。まあどっちでもええけど」

 本当は私もなんでもいい。ここで暮らせるなら、別になんでも。おじいちゃんとおばあちゃんが大事にしてた家がなくならないならそれでいい。おばあちゃんがひとりで暮らさずに済むなら、お母さんだっていいはずだ。わからないけど、わかってほしいと思う。

「そういや、なんで家継いだん? って前聞いたやろ」
「……うん」
「あれな、あのあと俺も考えてん」
「あんとき答えてたやん」
「まあな。でもなんでやろなって改めて考えたら、俺もやっぱここが好きやからやろなって思って」
「そんだけ考えて結局答えそれなん」
「まだ納得できんか。ほな次会うときまでに考えとくわ」
「いらんて。別に理由なんかなんでもいいし」
「お前のためちゃうわ。俺が考えてたいねん」
「なんでや」
「ここが好きやからやろ」

 意味わからん。堂々巡りな話をする信ちゃんは珍しくて、けど頭で考えても説明がつかないことこそが感情で、それに付随した行動で、着いてくる結果たちなんだろう。でもその答えは今じゃなくていつか遠い未来で初めてわかるものなのかもしれない。なんとなくで続けていただけだと思っていた部活を、こんなにも好きだったと失って初めて気づいたように。
 部活に明け暮れていた、大切だった青春はもう戻ってこない。大好きだったという気持ちだけが今でも残っている。その気持ちだけを抱えて生きていく。なくならないように、なくさないように大切にしたままちゃんと大人になっていく。
 でもおばあちゃんの家は違う。部活と違って、時が来たら必ず手放さなくてはいけないものではない。ここで暮らすことを選ぶ権利が私にはある。守ることができる。考えることをやめる必要なんかない。私もおばあちゃんも、そして信ちゃんも。

 乗客どころか駅員すらもいない笛音九駅は静かに佇んでいて、電車が来るまでまだ少し時間がある。

「信ちゃん」
「ん?」
「……ありがとう」

 送ってくれて、一週間一緒にいて、いろんなことを教えてくれて、考えさせてくれてありがとう。たくさんのありがとうをひとつに詰め込んだ。信ちゃんは表情ひとつ変えないまま「うん」とだけ頷いた。

「ちゃんと飯食えよ」
「うん」
「お母さんに心配かけさすな」
「……。」
「返事」
「……ハイ」
「宿題せえよ」
「……最後までうるさいな」
「来年」
「ん?」
「待っとるからな」

 柔らかい、ふわっとした笑みだった。信ちゃんてそんな顔できるんや。まさかそんな顔で待ってるなんて言われると思わなくて、びっくりしすぎて思わず私も笑ってしまった。

「やっと笑ったな」
「え?」
「つまんなさそうな顔しか見てへんから安心したわ」
「……信ちゃんも人のこと言えんやろ」

 でも確かに、なんだか久しぶりに気持ちが軽い。自分がどうしたいのかがはっきりするだけで、こんなにも楽になるものなのか。

「信ちゃんさ、好きな人できたらさっきみたいに笑ったらいいと思う」
「なんや急に」
「だっていっつも怖いもん」

 すぐにいつもの無表情に戻って、そんなつもりないけどな、と不服そうに言う信ちゃんにもはや安心すらする。さっきの顔は金輪際私に向けないでほしい。しばらくすればたぶん忘れるから今はいいけど、来年ここに住んだらいよいよおかしな気を起こしてしまうかもしれない。軽トラを降りて信ちゃんに手を振ると、柔らかい笑みで手を振り返される。だからやめろその顔。逃げるように背を向けて駅舎を目指した。

 無人の駅でひとり、蝉の声を聞きながら電車を待つ。静かだから自然の音や色がとても近く感じる。この自然を守ってきた人たちが綿々と世代を越えながらここで暮らしている。
 大好きな場所、守りたい場所のために私には何ができるんだろう。そんなことを考えて電車に乗った。そんな七日目。そんな一週間。来年また来る。

2024.08.19

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