5日目


 信ちゃんとこで二日連続で五時半起きをしたからか、誰に起こされるでもなく自然と五時半に起きた。信ちゃんの呪いだと思った。
 おばあちゃんと朝ごはんを作って食べた。私は昔からおばあちゃんが漬ける糠漬けが好きだった。糠床は毎日こまめに混ぜないとだめになるらしい。毎日丁寧に手入れをしているおばあちゃんの糠床は、もしもおばあちゃんが死んだら二度と再起不能になるんだと思うと悲しかった。
 ラジオ体操にもおばあちゃんと行った。信ちゃんは相変わらずキビキビと模範的な動きでラジオ体操に参加している。体育祭とかで一番前の台に上がってやらされた過去でもあるんだろうか。あんなん選ばれるとか私だったら死んでもいややけど信ちゃんは平然とやっていそう。学生時代の信ちゃんを想像しては、自分の身近にいる誰と似ているだろうかと当てはめてみるけどその誰にも似ていなくて、信ちゃんと同じ学校に通ってみたかったなとふと思った。幼馴染みとしてやなくて同級生あるいは先輩後輩として出会っていたら、たぶんお互い認識するのかも怪しいくらいの関係性やったやろなと思うと不思議な気持ちだった。同時に、今まで関係性が薄くて話したこともないけどかろうじて顔を見たことあるかもしれんくらいの人たちにだってそれぞれの生活があったのだろうと当たり前のことを思う。

 昨日の雨で畦道はぬかるんでいた。稲が倒れていないことを確認して、田んぼに充分な水が行き渡っていることに信ちゃんは満足そうだった。雨が降らないと地割れするらしい。田んぼって常に水が張ってあるもんだと思っていた。根腐れするんやって。

「なんや今日大人しいな」
「私が?」
「いま俺とお前しかおらんやろ」
「信ちゃん顔いいけどその性格じゃモテへんやろ」
「お前には言われたないな」

 今日も今日とて青空の下で食べるお弁当はおいしい。今日はおばあちゃんと一緒にお弁当を作ってみた。お気に入りの糠漬けも入っている。卵焼きは失敗したから信ちゃんに一切れあげた。「味はうまいな」って言ってた。代わりに好きなの取ってええよ、と言われてお弁当箱を差し出されたのでミニトマトをひとつもらった。信ちゃんとこで作ってるらしい。甘くておいしかった。
 こういう生活もいいなと漠然と思った。

「おじいちゃんのこと思い出すんよ」

 なんの脈絡もなくぽろ、と漏らすと信ちゃんがじっとこちらを見た。

「お盆やし帰ってきとるんかもな」
「そういうのやなくて、」

 おばあちゃんのことはやっぱり信ちゃんに話せそうになかった。話したらあかんような気がした。孫の私にも隠していたのに、ご近所に知られるのはおばあちゃんに悪いと思った。ずっとここで生活している信ちゃんはとっくに知っているのかもしれない。それでも勝手に話したらあかんと思った。

「おじいちゃん、大好きやった」
「おん」
「いろんな遊び教えてくれた」
「懐かしいな、ナマエんとこの庭で花火もやったな」
「やったなー」

 おじいちゃんが死んだときは悲しかった。でもその悲しみもいつの間にか乗り越えてしまった。それは私が今より小さかったから人が死ぬということの重さをまだ正しく理解してなくて、なおかつおじいちゃんと過ごした時間が短かったからかもしれない。でも忘れてないってことは、“子供だから”で片付けられないような気持ちが自分の中にまだあるんやと思う。子供扱いされてキレる私だけは、もっと子供だった自分を認めてあげなくてはいけないのだと思う。

「私が遊びに来たらいっつも遊んでくれて……いつから体調悪かったんやろ」
「ナマエの前で元気なふりしてた、とか思てんの」
「出た、説教。うざ」
「説教ちゃうわ。ナマエんとこのじいさん、俺が覚えとる限りやけど別に体調悪そうやなかったで」
「そうなん?」
「元気にしとったで。まあ俺も子供やったし、子供の前ではそういうの見せん人やったのかもな」
「……具合悪いんやったら、お祭りとか蛍とか連れてってって言わんかったのに」
「うちはバァちゃんと一緒におるし他んとこはわからんけど、久しぶりに孫に会うたら元気になってまうもんなんやろな」

 じゃあずっとここにおったらよかったんかな。そしたらもうちょっと長生きできたんかな。子供の私にそんな選択権あるはずもなかったのに、今さらそんなことを思う。

「ナマエのじいさんで思い出したわ」
「ん?」
「蛍、見に行こか」
「おらんやろ」
「おるで」
「……ほんまに?」
「おん」

 信ちゃんは相変わらずの無表情で、とても嘘を言っているようには見えない。
 おじいちゃんが生きてた頃、子供たちを集めて蛍を見に連れていってくれたことがある。ずいぶん少なくなってしもうたなあって寂しそうに笑うおじいちゃんの手の温もりを今でも覚えている。
 おじいちゃんの初盆のとき、落ち込む私に信ちゃんが蛍を見に連れ出してくれたことがある。子供ふたりだけでは到底たどり着けなくて、周りの大人たちの大捜索の末に発見されてふたりでめっちゃ怒られたし蛍も見れなくて。お利口な信ちゃんにとって、たぶん人生でめっちゃ怒られたのはあの一件だけかもしれんと思うとちょっと笑えた。

「ばあさんに俺からちゃんと言うとくわ」
「言わんでいいやろ。もう子供やないし」
「あの人らにとっては俺らなんか一生子供やろ」

 こんなにかわいげない信ちゃんでさえ、結仁依さんは信ちゃん、信ちゃん、とかわいがっている。信ちゃんがそれをうざがっている様子もない。もう高校を卒業して、一端に働いている信ちゃんでさえ今も子供扱いされているのに、反抗することもなく受け入れている信ちゃんはやっぱり私より大人なんやなと思った。



 一度帰ってごはん食べたら信ちゃんが迎えに来た。私からも話したのに、ちゃんとおばあちゃんにも事情を説明する信ちゃんは真面目やなと思った。
 軽トラを走らせて山に入る頃にはすっかり暗くなっていて、よくこんなところに子供だけで行こうとしてたなとかつての自分たちの無謀さを思い知る。何も知らなくて、無邪気だったからこそできた暴挙とも言える。
 少し歩くと川のせせらぎが聞こえてきた。遠くでフクロウが鳴いている。懐中電灯の心もとない灯りを頼りに川を目指すと、やがて淡い光が点滅しながら舞うのを見た。

「……おった」
「せやろ」

 おじいちゃんが生きてた頃でさえ、蛍は本当にちょっとしかいなかった。あとで知ったけど年々数を減らしているらしい。今にも消え入りそうな淡い光は、数少ない仲間を探して自分がここにいることを懸命に主張していた。思わず声を潜めたのは、蛍が驚いてどこかに行ってしまわないように、蛍のひっそりとした暮らしを邪魔してしまわないようにと思ったからやと思う。

「もうおらんと思ってた」
「いっときはほんまにおらんかったで。でも戻ってきてん。ここが気に入っとるんやろな」

 静かに語る信ちゃんの言葉がなぜだか自分に重なって身に染みた。
 蛍はきれいな川にしか生息できないという。ここが好きなんだろう。ここでしか生きられないんだろう。例えもっといい環境があったとしても。
 そんな自己主張を灯しながら暗闇をさまよう蛍を見ているうちになぜだか無性に泣きたくなった。

「……私も、ここが好き」

 本音が零れた。ハッとして信ちゃんを見ると、満足そうに目を細めて「そうか」とだけ言って笑った。おじいちゃんのことをまた思い出した。そんな五日目。

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