4日目


 ラジオ体操を終えて信ちゃんと田んぼへ行こうとしたらお母さんが来てた。私を迎えに来たんだと思ってたけど、お母さんはおばあちゃんだけを連れてどこかへ出かけるらしい。なんとなくそれが引っ掛かったけど、別に私も一緒に行きたいわけじゃないからあんまり深く考えなかった。

 昼頃に雨が降ったから今日は早くに田んぼから引き上げた。おばあちゃん家に着替えを取りに戻ると、まだお母さんたちは帰ってきていないらしかった。お母さんと顔を合わせれば喧嘩になるからそれでよかった。
 おばあちゃんのいないおばあちゃんの家は静かだった。おばあちゃんはひとりでいつもここにいるのかと思うとちょっと悲しくなった。
 おじいちゃんは私が小学生の頃に亡くなっている。一緒にカブトムシを取りに行ったり蛍を見に行ったり、私に自然との遊び方を教えてくれたのはおじいちゃんだったから大好きだった。だから死んだときは悲しくて泣いたけど、確かあのとき信ちゃんが私を慰めようとして、一緒に折り紙で鶴をたくさん折ってくれた。今思うと元気な私に千羽鶴渡されても困るし、死んだおじいちゃんは千羽鶴で祈っても生き返るわけないけど、あの頃は私も信ちゃんも子供やったんやなと思うとちょっと笑えた。
 冷蔵庫から麦茶を出して飲もうとして、ゴミ箱の中、ふと視界の端に大量の銀色が目に入る。空になった薬のシートだ、と気がついて心臓が冷たくなる気がした。おばあちゃんの名前の入った処方箋の封筒も近くにある。全部おばあちゃんが飲んでる薬なんだと理解した。生きてた頃のおじいちゃんや、おじいちゃんのお葬式の記憶が急に鮮明になる。
 久しぶりに会ったおばあちゃんは、私の思い出の中よりもずっと小さく細くなっていた。私が大きくなっただけかもしれないと深く考えずにいたけれど、年老いたおばあちゃんがいつまでも元気で生きていてくれるとは限らない。そんなことはわかってるけど今すぐどうにかなるなんて考えもしていなかった。でもおじいちゃんのときだってそうだった。おじいちゃんが死ぬことなんか考えられなかった。お盆とお正月くらいしか顔を見せない孫のために、元気そうに見せていただけだなんて想像すらできないくらい子供だった。
 お母さんが私をここに連れてきたほんとの理由なんか、気づきもしないで今朝だって、のうのうとお母さんに悪態なんか吐いてしまった。

 茫然と立ち尽くしていると、やがてお母さんたちが帰ってきた。処方箋の封筒は空で、今日おそらく病院に行ってきて、ついでにどこかで買い物までしてきたんだろう。ふたりはパンパンになったレジ袋をいくつも提げていた。

「ナマエ、今日は北さんとこ行かんでええの」
「……お母さん私に言うことあるよな」
「え?」

 しらばっくれるお母さんに本当に腹が立って、なんでもいいから今すぐ文句を言いたくて、でもおばあちゃんの前で言いたくなくて、急に全部怖くなって、居ても立ってもいられなくて、誰かにすがりたくて、家を飛び出して雨の中信ちゃんの家に駆け込んだ。信ちゃんは小屋で農具の手入れをしていて、思わず広い背中のシャツを掴む。振り向いた信ちゃんは私を見て何事かと言わんばかりに驚いていた。

「どないしたん」

 聞かれても答えられない。どう答えていいかわからない。おばあちゃんが死ぬかもしれないなんて、そんなこと絶対言いたくない。でも今すぐ私を安心させてほしい。
 何も答えられない私の呼吸はパニックで浅くなっていたのだろう、信ちゃんは私に深呼吸するように促した。

「何があったか知らんけど言いたくないなら言わんでええ」
「……うん」
「落ち着くまでここおったらええよ」

 信ちゃんは本当に何も聞かずにいてくれた。まだ頭が混乱していて、何も認めたくなくて、自分はもうとっくに大人の仲間入りをしたと思っていたのにあまりにも無力だと思い知った。何も教えてくれなかったお母さんにもおばあちゃんにも腹が立った。元気そうになんか振る舞わなくていいのに、なんで自分のことよりも私のことなんか気にかけるんだとむかついた。それは私が子供だからだと気がついて途方に暮れた。やるせなかった。

「……信ちゃんは」
「ん?」
「大事なこと自分だけなんも聞かされてないこと知ったらどうする」
「……せやなあ」

 なんでもいいから答えがほしい。私より先に大人になった信ちゃんなら答えをくれる。私は知らないうちに急かすような目をしていたのだと思う。信ちゃんはじっと私の目を見て言った。

「仲間はずれにされた、とか思ってるやろ」
「は?」
「嘘とか秘密は確かによくないよな、俺もそう思う。けど嘘とか秘密にはな、人を騙して陥れるためのもんと、誰かを守るための優しいもんがあるんやと思う」

 お前がされたんはどっちや。問いかけるように信ちゃんは私を見る。相変わらず無表情で、全てを見透かすような目だった。

「そんなんどっちでもいい。私だけ内緒にされてたことが悲しい」
「じゃあナマエはその秘密知ったときどう思った?」
「……怖くなった」
「じゃあその秘密はナマエを守ろうとしてくれたんやろな。お前はなんか勘違いしとるけど、自分も自分以外の人間もいつも何かしら考えて生きとるんや。けどそれが間違ったりすれ違うことはある。大人でもな」
「守ってほしいなんて頼んでない」
「守る側は守りたいから守ってるだけやし別に感謝されたいとも思ってへんやろな。でもお前にとってそれが嫌なんやったら言わな伝わらん。機嫌悪そうに黙ってたら相手が全部察してくれると思ったら大間違いやで」

 信ちゃんに答えを教えてほしかったのに、聞いたら聞いたでいちいち正論でなんかむかついて、むかつきすぎて泣きたくなった。滲む目元を拳でぐいっと拭って小屋を出る。

「もう信ちゃんとこ泊まらんから」
「なんや、もうちょい気合い入れたろか思ってたのに残念やな」
「ラジオ体操と田んぼ行ったらいいんやろ」
「生活態度とか習慣も気になるけどまあええか」
「信ちゃんとか信ちゃんの家族が嫌とかやないから」
「おん」
「おばあちゃんともっと一緒におりたいだけやから」

 そう言うと信ちゃんは「それはさすがに敵わんな」と声を上げて笑った。



 うちに戻るとお母さんはまだ家にいて、おばあちゃんは縁側で横になっていた。本当にあんまり体調よくないんやと思った。ただの昼寝かもしれんけど。そうであってほしいけど。期待は時に残酷で、現実を見誤ることがあるのを私はもう知っている。だから自分の目で見たものだけを過信したりしない。それがどんなにつらい現実だろうと、知らないふりはできないししたくもない。

「おばあちゃん、どっか悪いん?」
「……うん」

 私の声は震えていて、訊ねると、意外にもお母さんはすぐに認めた。ナマエは知らんでええ、とか言われると思ってた。他人をわかった気になっていたのは私の方だったかもしれない。

「おばあちゃんはまだ大丈夫って言うてるけど、近々うちで面倒見ようと思ってる。お父さんもええよって言うてくれてるし」
「……この家どうするん」
「まだおばあちゃんうちに来るって決まったわけやないし、ハッキリしたことは言えんのよ。ごめんね」
「そうなんや」

 あんた、この家好きやもんね。
 しみじみと呟くお母さんの言葉が雨垂れと共に静かに響く。お母さんだってこの家で育って、こうしておばあちゃんを気にかけるくらいにはここが好きなはずだった。

 夕方にはお母さんは帰っていった。私も一緒に帰るか聞かれたけど、まだここにいることを私が決めた。自分で選んだ。そしてどうしたらここを守れるだろうかと考えた。周りにどうなってほしいかじゃなくて、自分がどうしたいかを考えてた。そんな四日目。

prev next
back

- ナノ -