次の日の朝、ナマエはひとり北の教室を訪ねたがまだ朝練の時間なのか待ち人は来ていなかった。昨日も結局知らない先輩から体育館裏に呼び出され「私好きな人おるねん!」と断ってもしつこく粘られ、部活前の北に助けられている。いつもどおり「ありがとう!」と礼を言っても「はよ帰り」とクールに立ち去られてしまったが。
 いつかちゃんとお礼がしたい、と常々思っていたが名前もクラスも割れたので遂に実行するときがきた。もう逃がさへんからな、と廊下で張り込んでいると朝練終わりとは思えない涼やかな出で立ちで待ち人がやって来た。相変わらずかっこいい、とキュンとしたのも束の間、HRの時間が迫っているのですぐに我に返る。

「北くんおはよう!」
「……おはよう」

 表情こそ変えないが、この人クラス違うのにしょっちゅう会うなあ、と北は内心思っている。迷惑なわけではないが調子は狂う。人がほとんどいない体育館裏ならまだしも、ミョウジナマエといると周りの視線がうるさいのだ。実際昨日も昼休み、ナマエが去ったあと一緒に昼食を食べていたバレー部連中から「ミョウジさんとどういう関係なん!?」と質問責めに遭っている。北としてはどういう関係もなにもないので返答に困る。それもこれもナマエが「一年にめっちゃかわいい子がおる」と無駄に有名なせいである。かわいいってだけでなんで有名なんやろ、体育館裏に毎日のように呼び出されて断ってるのを鑑みるに本人迷惑してそうやけどな、と北は思う。

「待って!? なんですぐ教室入ろうとするん!?」
「まだなんか用あんの」
「あるよ! 北くんを待ってたんやで」

 呼び止められた北は仕方なくナマエと向き合う。こうして近い距離で向き合うのは初めてで、北の方は「用事ってなんやろ」くらいにしか思っていないがナマエの方は心臓が破裂しそうである。再三言うがHRの時間が迫っているのでときめいている場合ではない。

「これ、いつものお礼」
「礼をされるようなことあったか?」
「いっつも体育館裏で助けてくれるやん、そのお礼」
「いらんて。あんたのためやないし」
「でも助かってるのはほんまやし受け取って。言っとくけど受け取ってくれるまで帰らんし何回でも来るよ私」
「それは迷惑やな」

 せやろー、と言いながら無理やり押し付けられた白いビニール袋を仕方なく北は受け取る。重。なに入ってんねんと思わずずっしりとした袋の中を覗き込む。

「……きゅうり」
「ママと家庭菜園してるんやけど今年めっちゃ豊作で毎日きゅうりで困ってるねん。うちのママおやつにまで持っていきって言うんやで」
「ミョウジのオカンおもろいな」
「おもろないー! おやつにきゅうり持ち歩く女子高生なんかこの世におらんし」
「はははっ。この世のどこかにはおるかもしれんやろ。失礼やで」

 感情表現豊かなナマエに思わず北は声を上げて笑った。なんやねんこの子。お礼や言うて学校にきゅうり持ってくんのはよくておやつに持ち歩くのはおかしいんか。よくお裾分けしてくれる近所のおばちゃんみたいやなと言いそうになったがさすがに失礼か。ふと我に返ってナマエを見ると大きな目を丸くして、口を開けたまま固まっている。心なしか頬も赤い。

「え、あ……」

 おまけにしどろもどろである。さっきまでの天真爛漫なミョウジナマエはどこ行ったん。北が目を合わせるとナマエは目を泳がせた。

「どないしたん?」
「いや、べつに、なんでも」
「顔赤いで。熱あるん?」
「な、ない! 大丈夫、大丈夫やから!」

 そのまま両手で顔を隠し「きゅうりもらってくれてありがとう!」と走り去ってしまった。なんやったんやろ。大丈夫そうには見えんかったけど。不思議に思ったが袋の中のツヤツヤのきゅうりたちを改めて覗き込む。真っ直ぐに、かつふくよかに育ったきゅうりたちはナマエとナマエの母が大事に育ててきた何よりの証明である。意外やなと北は思った。ミョウジは今時の女子やし「土いじりなんかダルい〜、かわいい私が汚れる〜」とか言いそうなもんやのになと思う。人を見た目で判断したらあかんな、そもそもミョウジは見た目と中身にギャップありすぎやけどなとまともに会話するようになって間もないというのに思う。変なやつやなとは思うが悪いやつではないのはわかる。
 たまに、ごくたまにミョウジナマエの悪い噂を耳にする。かわいい顔して性格悪いらしいで、とか、男とっかえひっかえしとるんやって、とか。くだらん噂やなと思っているし信憑性もない。だがただの噂話やと言えるだけの根拠も信頼関係もない。それでも自分の目で見たものなら信じられる。ミョウジは誰からの告白でもいつも断っているし、少なくとも自分の前でのミョウジは嫌なやつではない。変なやつやけどな。一部の、特に女子が言うような「かわいいからって調子乗っとる」ようには北には見えなかった。変なやつやけどな。北にとっては「ミョウジナマエはただの変なやつ」という認識しかなかった。

 一方変なやつことナマエはというと、自分の席まで駆け込むなりすぐさま机に突っ伏した。ただならぬ様子にナマエの友人たちがナマエから朝イチでもらったきゅうりをかじりながら声を掛ける。きゅうりをおやつにする女子高生が目の前に複数いることをナマエは知らない。

「どないしたん? 北くんとこ行ってきたんやろ?」
「…………いってきた」
「……フラれたん?」
「フラれてへん!」

 話しかけてもナマエはいっこうに顔を上げない。友人たちは顔を見合わせ、どうしたものかと心配したがやがてナマエは「ぁあ〜〜〜……」と奇声を発した。

「なに!? こわいて!」
「……私、北くんのこと好きかもしれん……」
「今さらやな」
「ちゃうねん、昨日までの好きとはちゃうねん」
「意味わからん。まあがんばりや、相手手強すぎるけど」
「……うん」

 本鈴が鳴って、みんながそれぞれの席に着く。担任が入ってきてHRが始まっても、ナマエはさっきのことを思い出していた。

 北くんって笑うんや……。
 人間やから当たり前やけど、なんか想像してたんとちゃうやん。あんな目きゅってして、笑うと一気に幼くなってかわいいなんて誰が想像できるん。
 北の笑顔を思い出すと心臓が苦しくなり顔や耳が熱くなる。口元も勝手にゆるんでしまい、思わず両手の平で頬を押さえたくなる。昨日までも好きやったけど、昨日までの好きと今の好きは絶対に違う。異常にモテる割に恋愛経験ゼロのナマエにもそれだけはわかる。名前も学年も知らなくて、遠くから見てるだけで幸せだった昨日までと、名前もクラスも知ってて会話ができて、自分に対して屈託のない笑みを向けてくれる今が同じ好きでいられるわけがない。もっと笑ってほしい。この気持ちはなんなん、イロモネアで最後まで笑わん客を笑わせなあかん気になる関西人の血が騒いどるだけなん? だから心臓はうるさいし顔も熱いん? どうしたらええの? 吉本の養成所とか行ったらええ? 私でも北くん笑わせられる? 弟子入りしたらええの? えみちゃん弟子募集してへん? ナマエの思考はもはやまとめることすら困難である。その間も北の笑顔を思い出してしまい、その度に頭を抱えたり叫びたくなったり床に転げ回りたくなったりする。もちろんしないが。一日中そんな調子なので、教師から「集中せえ!」と頭を叩かれることもしばしばあった。
 もう北くんの顔見れへん。
 思い出すと顔が熱くなるのに勝手に思い出してしまい、ナマエは一日中苦悩するのであった。
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