春。新生活。そして放課後。まだ糊の効いたシャツと少し大きめに誂えたブレザーに身を包む同級生たちが浮かれてはしゃいでいる。あどけなくも凛とした面持ちの少年、北信介は脇目もふらずに体育館を目指していた。稲荷崎高校に進学を決めたのは、バレー部の監督に声を掛けられたからだった。
 高校生になったからといって、特段何かが変わると期待はしていない。自分は毎日やるべきことをちゃんとやるだけだしそのために今日も部活に精を出す。まずは体育館のモップ掛けにネット張り、できれば先輩方が来てしまう前にボールも磨きたい。選手層の厚いこの学校では、部活に一番乗りするのはなかなか難しかった。部室から体育館までは距離があるが廊下は走ってはいけない。誰かとぶつかると危ないから。まあ普通に歩いててもどうせ着くしな、と特に急ぐわけでもなく背筋を伸ばして歩く。北は人より歩くのが早い方だった。
 体育館の入り口に他に靴はなく、どうやら北が一番乗りである。靴を履き替えようとしたまさにそのとき、体育館の裏から「好きです! 付き合ってください!」と男の叫び声に似た告白が聞こえてきた。体育館の裏といえばお決まりの場所ではあるが、こちらが部活に励み汗を流している傍らで恋が実ったり玉砕したりするのは気分がよいものではないのでできればよそでやってほしい。盗み聞きも趣味ではない。

「ごめんなさい!」

 しかもフラれている。新学期早々残念やったな、はよ帰って飯食って寝ろと自分には関係ないが心にもない同情をしかけたが男の方はどうやら諦めるつもりがないようだった。

「頼む! せめて連絡先だけでも教えてくれへんか!」
「個人情報大事にせえって先生言うてたからあかん!」
「じゃあデートだけでも! 一回でええ! 一回だけでええから!」
「知らん人に着いてったらあかんてママに言われてん!」
「知らん人ちゃうよ、隣のクラスやで、これから俺のこと知ってってくれたらええから頼む!」

 告白されている女子生徒が折れない限り、このやりとり永遠に続くんちゃうか、と告白の当事者ではない北も辟易した。そう思うと先に体育館の裏まで足が動いた。覗き込むと今まさにフラれている男が女子の腕を掴もうとしているところだった。

「なあ、その子困ってんで」

 予想外のところから声を掛けられたふたりは同時に北の方に視線を向ける。北から見て後ろを向いていた女子が艶のある髪をなびかせ振り返り、パッチリとした大きな目に捉えられた瞬間思わず北も息を飲んだ。女子生徒の白い肌はまるで発光しているようで、つい視線が釘付けになる。かわいい、と思った。

「なっ! は!? 関係ないやろお前誰やねん!」
「そっちこそ場所考えろや。こっちは今から部活あんねん。邪魔なんそっちやしそういう考えなしやからフラれんちゃうの」

 涼しい顔で淡々と詰められた男は顔を真っ赤にして「なんやねん!」と吐き捨てた。フラれた挙げ句のオーバーキルである。わざとらしく足音を立て、通りすがりにガンを飛ばされた北は真っ直ぐに男と目を合わせたまま男が立ち去っていくのを見届けた。これでようやくバレーに専念できる。さっさと体育館に入ろうと踵を返す北の後頭部に、鈴の鳴るような声が響く。

「あの! ありがとうございます!」

 振り返ると女子は北をまっすぐに見つめている。顔小さいな、と冷静に思った。

「別にあんたのためやないし」

 部活が始まっても裏でスキデスゴメンナサイのやりとりが一生続いていたら迷惑極まりないのでさっさと追い払っただけだ。だからこれは別に女子生徒のためではない。

「用済んだやろ。帰らんの?」
「は、はい! 帰ります! 失礼しました!」

 女子生徒はビシッと敬礼までしたので恐らく上級生だと思っているのかもしれないが、これでも北は正真正銘入学したてのピカピカの1年生である。とても新入生とは思えない貫禄ではあるが。すらりとした脚がすたこらさっさと去っていく。頬は薄紅で血色がよく、白い肌によく映えていた。石鹸のような淡い香りとすれ違うとき一瞬だけ目が合って、一瞬なのにまるでスローモーションのように感じる。

 お人形さんみたいな子やな。
 それが第一印象。その後も女子生徒もといミョウジナマエは、その見た目の愛らしさから何度も放課後の体育館裏に呼び出されては告白されていて、北はその現場に何度も居合わせることになる。男の方があまりにもしつこいようなら「部活の邪魔やねん」と追い払ってやることもあった。
 だからといって同級生である北とミョウジにそれといった接点はないままで、たまに彼女を見かける度につい目を留めてしまう程度。機械みたいだと言われる北にも一応かわいい女子をかわいいと思うだけの心はある。かわいいと思うだけではあるが。例えるなら燃えるような朝焼けや満開の桜、夏の花火や田園風景、秋の紅葉や冬の夜空などきれいな景色を見たときと同じ感情である。それらの北にとって美しいものの中にミョウジも含まれていて、美しい景色を自分だけのものにしようと思わないのと同じで特に仲がいいわけではないミョウジに対してそれ以上の感情はなかった。

 一方助けられたミョウジナマエはというと、北信介にまんまと一目惚れした。
 運命の人や。
 静かな佇まいで、輩と呼んでも差し支えない男を淡々と言い負かす様は痛快そのもの、涼しげな顔立ちもなにもかもナマエの心臓にぶっ刺さった。凛とした堂々とした立ち振舞いを見るにおそらく上級生、この春入学したばかりのナマエはそう推測した。見事に外しているが。
 部活始まる言うてるし、剣道とか弓道やろか。袴似合いそうやし武芸とか極めてそう。絶対なんかの達人や。ほんで朝は禅とか滝行とかしてくるんやろな。とんだ勝手な妄想である。
 そんな達人(仮)にナマエは恋をした。すれ違うとき一瞬だけ目が合ったが、あまりのかっこよさに自分から目を逸らした。

 なんなん、この気持ち。
 心臓は早鐘をエイトビートで刻んでいる。生まれてこの方一目惚れなんかされることはあっても自分だけはしないと思っていた。されても迷惑なだけやから。それも相手は武芸の達人らしき先輩で、女の子に興味なさそうな人。好きになった瞬間失恋が確定したようなものだがナマエにとって恋が実るとか実らないとか、そんなことはどうでもいいような気がした。とにかく今、あの人に出会ってからというもの世界が突然輝いて見える。なんか知らんけど今ならなんでもできるような気がする。口うるさいママの小言も、野球中継で管を巻くパパの晩酌も絶対耐えられる。恋ってめっちゃ素晴らしいな! ナマエは天を仰いだ。スキップして帰りたいくらいだった。顔がかわいいのでギリギリだがその様はまるで不審者そのもの、通りすがりの犬にも吠えられる始末だがナマエにとっては関係ない。元気な犬やな! としか思わない。入学早々呼び出しなんかされてしまい、最悪な一日だと思っていたその終わりに、ミョウジナマエは好きな人ができた。
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