あれから二年経ち、そんなこともあったなと北は思い出す。今もふたりの交際は続いており、ナマエは大学三年生になった。

 北家が営む農園の手伝いにナマエはしょっちゅう家に来る。元々「バイトしようかなあ」とナマエが言うので「せやったらうち来たらええやん」と誘ったのがきっかけである。今では両家家族公認のため、週末は北家に泊まり日曜日の夜に自宅に送り届けるのが当たり前になっているが北にはひとつ懸念点があった。

 就活するともしないとも聞いてへんけど、大丈夫なんか。

 三年生になっても当たり前のように週末に家に来て、夜に勉強しているところなら時折見かけるし大学での他愛ない話はよく聞くが就活に関しては一切聞いていない。北としてもナマエの将来に関わるのなら毎週末のように来させるのは控えようと思っている。ナマエにとっては耳が痛い話になるかもしれないが、そろそろ話せんとなと思いながら先に作業を終えていたナマエの方へと向かう。

「疲れたやろ。帰ろか」
「んー」

 畦畔に座り込んだナマエに声を掛けても気のない返事しか来ずナマエは腰を上げる様子もない。大きな目はうっとり細められ田んぼを眺めていた。ナマエと同じ方に視線を向ける。水を張って田植えを待っている広大な田んぼは凪いでいて、赤く染まった夕焼けの空を鏡のように映していた。

「きれいやなあ」

 感嘆とした声を漏らすナマエの大きな瞳もまた、夕焼けと、それを水鏡で映す田んぼを映し宝石のようにキラキラとしている。
 北にも覚えがある。農業をしていると、ふとしたときにこういう瞬間が訪れる。気まぐれな空や実をつける前に咲く花、虫やカエルや鳥、それらが全て大地の息吹きで、無心で作業をしてふと息をついたときにそういうささやかなものたちが心を穏やかにしてくれる。自然の中で生きないと見えてこないそういうものたちは、いつも北の心に彩りを与えてくれていた。
 この田んぼもまた、苗を植えればやがて青く瑞々しい稲を伸ばし、穂を実らせ金色に輝きながら頭を垂れるだろう。
 その鮮やかな景色の移ろいをナマエにも見せたい。一緒に見たいと思う。これから先何年でも何十年でも、何気ない日々の中でささやかな幸せを見つけながら笑っていたいと思う。
 一緒に生きるってこういうことなんかな。
 ナマエの隣に腰を下ろし、贅沢にも思えるくらい空と水面に映る美しい夕焼けを眺めながらそんなことを思って、ナマエの小さな手に自分のを重ねた。夕焼けで透けてしまいそうな目がこちらを向いたのを確認してそのまま軽く唇を重ねる。微笑みながら首を傾げるナマエを愛しいなと改めて自覚した。

「なあ、卒業式のとき言うてたこと、まだ気持ち変わってへんの?」

 訊ねると、こくりと頷く小さな頭。
 四年もあれば気持ちも状況も変わると思った。それはそれでナマエの人生だと思ったが、あのとき手放したくなかったからこうして今付き合っている。じゃああと二年あったらナマエの気持ちは変わるのか。変わるかもしれない、だがそれは今の気持ちを蔑ろにしてもいい理由にはならない。人生ってこういうことの連続なんやろなと北は思う。そのときそのときの選択は感情に依存するもので、感情は過去の積み重ねによるもので、未来を予測し最善を選ぶためのもの。理性的に論理的に考えたところで、それが感情とあまりにも剥離しているようなら選んだところでたぶん意味がない。できれば後悔のない人生というものを選びたい。
 お互いの気持ちを確かめ合って、ゆっくりと着実に育んできたふたりの関係。こうしていられるだけで幸せだと思えるが、この幸せがどこかへ行ってしまわないようにいつかの未来を約束できる確実なものがほしい。こう考える自分は欲深いんやろか、わからんわ、でも嘘は吐けへんしな、それが例え自分であっても。

「嫁に来るか?」

 北の言葉にナマエの表情はパアッと明るくなる。花が咲いたような、見ているこちらまで気持ちが華やぐこの人のこの顔が好きだなと実感する。

「ええの!?」
「どうせ就活する気ないんやろ」
「な、なんでわかったん!?」
「わかるわ。何年一緒におると思ってんねん」
「このまま既成事実作ったろかなって考えててん……」
「そんなことせんでもええよ。でもちゃんと卒業はせえよ」

 するー! そのままガバッと抱き着かれたので受け止めて細い腰に手を添えた。俺今汚いんやけどな、とも思ったが、それを言ったところで私も今汚いで! と元気に返されるオチまで見えてしまった。

「なあ、私やりたいことあるんやけど……」
「なんや」
「スイカ作ってもええ?」

 は? スイカ?
 抱き締めていた腕を緩めナマエを見ると、どうやら冗談ではないらしい。少し照れながらナマエは言う。

「昔っから作ってみたかったんやけど、いっぱい作ってもうちじゃ食べきれんし学校とかにも持っていけんやろ? ご近所に配るのも限界あるし」
「せやな」
「けど信介くんのご近所もらってくれるとこいっぱいあるし、うちの近所にも配ったらええし、それでも余ったら農協とかに持ってこかなって」

 そんないっぱいは作らんで! と、おそらく過去に親に反対されたのか、真剣に北を説得しはじめる。想定以上に控えめな夢だったが、決して笑ったりはしない。なんでも叶えてやる、とはさすがに言えないが、そんなことでええんや、それくらいなら叶えてやりたいな、と思う。

「梅は作らんでええの?」
「木はな〜……難しいんちゃう……?」
「ナマエが梅作ったらバァちゃんが梅干しにしてくれんで」
「そんなん幸せすぎるやろ!? そんな贅沢覚えたらあかんて!」
「ええんちゃう? 梅干しの種は植えんといてな」
「植えへんし!」

 思わず声を上げて笑うと、ナマエも釣られたように笑う。ナマエとおったらそのうち毎月なんかの収穫してそうやな、うち米農家なんやけどな、そう思うが米以外もそれなりに作ってはいるのでナマエが多少増やしたところで問題はない。花や実で溢れる畑は心に彩りを与えてくれるだろう。うまく育たなかったとしても、また来年どうするか、ナマエと一緒に真剣に考える日々は想像するまでもなくたぶんとても楽しい。

「北ナマエか……ええなあ」
「バァちゃん喜ぶやろな。ナマエのこと好きやし」
「明日うちの家族にも言わな」
「ナマエのオカンに怒られへんかな」
「大丈夫や、私のために争わんといて! って間に入ったるよ」

 もちろんそんなことにはならないのだが、嫁入り前の娘を頻繁に外泊させている負い目が北にはあり、ナマエの両親に気に入られているなど夢にも思っていないのだった。

2024.7.5
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