その日の昼休み。用事を終え自分のクラスに戻る途中、中庭でナマエがひとりバレーボールと戯れているのが見えた。自分で上げたボールもうまく取れない様子は見ていてあまりにももどかしい。思わず自分も中庭に出てナマエに話しかける。

「他のやつらどないしたん」

 北に気づくと、ナマエは高く上げたボールを慌てて両腕でキャッチした。ジタバタしすぎやろ。素人やからそんなもんやろうけど、なんでボール怖がってんのにバレー選んだん。突っ込みたいところは山ほどあるが、北の問いかけに項垂れたナマエを見るとさすがに憚られた。

「……断られてもうたー」

 あはは、と無理して笑うナマエが痛々しく見えて、思わず北は眉をひそめた。
 同じクラスになってから、ナマエがクラスの女子の中で浮いているのが目に見えてわかった。別にいじめられているわけではなさそうだし、無視されているということもなく当たり障りのない交流をしているようだったが、どうにも他の女子とナマエの間には壁がある。ナマエもそれを察してなのか、他の女子に対しては北にするような無遠慮さはないように思う。
 さすがに高三になってまでナマエの根拠ない悪い噂を信じているやつはいないようだが、他の女子としては自分、あるいは自分の友人の好きな人がナマエに目を奪われるのをよく思っていないらしく、だがそれはナマエに原因があるのではなく、あるとしてもかわいすぎるからとか改善しようのない理由でしかないので言ってしまえばただの妬みである。ナマエのせいではないとわかっていても感情が納得するかは別の話で、そんな理由からナマエは他の女子から距離を置かれていた。それは根も葉もない噂よりも明確な拒絶理由である。とはいえナマエにも別のクラスに気の合う友人はいるので特段同情する必要もないし、ナマエがどう思っているのかわからない以上は可哀想だと思われることの方がナマエにとってはいやなのではないかと北は考えている。

「いっつも一緒におる子らに声かけへんの?」
「クラスの子たち誘ってみる! って言うたら応援してくれたし、あんまり心配かけたくないねん。みんなええ子やから、たぶん私より怒るし」
「で? 自分で上げたボールにビビっとるやつがひとりで練習して上達するん?」
「やらんよりはましやもん!」

 しゃあないな、と小さく溜め息を吐いてブレザーを脱ぐ。近くのベンチにはナマエのものと思しきブレザーが畳んで置いてあったので腕時計と一緒に隣に置いた。

「距離感掴めんうちにいきなりオーバーはムズいやろ」
「そうなん!?」
「ボール出してくれるか」
「一緒にやってくれるん!?」
「ええよ」

 シャツの袖を捲りながら返事をするとナマエの表情はパアッと明るくなった。

「ありがとう! うれしい! あ、でも優しくしてな」
「ただの対人パスに優しくするもクソもないし手抜いたら練習にならんやろ」
「魔球とか打つ気やろ!? やめてや!?」
「そんなん打てへんわ」

 おっかなびっくり、といった様子でポーンと高く上げられたボールを北は丁寧に返す。北に倣ってナマエもアンダーで返すが、ボールは北よりだいぶ斜め前の方へと飛んできた。「ごめーん!」という泣きそうな声も一緒に飛んでくる。威力はほとんどないにせよ予想つかんとこに来るの厄介やなと思いながらも冷静にナマエの元へと返す。

「肘は地面と平行にして、腰落として膝から全身で上げんねん」
「全身!? え、どう!?」
「そう、ええ感じやん」
「まっすぐ飛んだ! 北くん教えるの上手やな!」

 助言も加えつつ、ラリーを複数回繰り返していくうちにボテボテだったナマエのショボレシーブもなんとか様になってきた。どうやら物覚えはいいし運動神経もさほど悪くない。

「うまいやん」
「実は中一んときバレー部やったんよ」
「元バレー部とは思えんビビり腰やな」
「二ヶ月しかおらんかったしボール拾いしかしてへんもん!」
「バレーつまらんかったん?」
「んー……」

 本腰入れてやっとったらそれなりに上達しそうやけどな、と思っての問いだった。言葉を濁したナマエは困ったように眉を下げて曖昧な笑みを浮かべている。いつもなら聞いてへんことまでベラベラしゃべりよるのになんや珍しいなと思った。

「……バレー部だけやないねん。中一んとき色んな部活に誘ってもらったんやけど、ちょっとするとみんなから嫌われてまうねん」

 心臓がどく、と嫌な跳ね方をした。まさに今憂慮しているクラス内でのナマエの状況と北の知らない過去が繋がる。

「知らんうちに私がなんかしたんかなって思ってたんやけど、毎回私も嫌われんのいややし『なんで無視するん?』って聞いたんよ。そしたら『誰々ちゃんの好きな人取ったやろ』とかそんなんばっか。心当たりないし誰なんその男の子知らんしって」

 北はナマエを可哀想だと思いたくなかった。他愛もない話で楽しそうにしていたり、うれしいときは言葉でも表情でも喜びを伝えてきたり、嫌なことは嫌と駄々を捏ねたり拗ねたり怒ったり。そんなナマエがクラスで孤立していることなどあまり気にしていないように振る舞っているのなら周りが、特に男である自分が妙な肩入れをするのは却ってナマエにとって余計な迷惑になりえると思っている。
 でも何年もそんな状況なのだと知ってしまったらさすがに何も思わずにはいられない。そこまでナマエに対して薄情にはなれない。

「私は普通にみんなと仲良くやりたいだけやのに知らんうちに知らん男の子が間に入ってきて私と友達の間ぐちゃぐちゃにされるねん」
「ミョウジがかわいいからやろな、とでも言うてほしいん?」
「今かわいい言うた!?」
「そういうとこちゃうん? 人の話聞かんとこ」
「……やっぱり北くんも私のこと嫌いなんや」
「嫌いとも言うてへんやろ。そういうとこやで」

 じゃあ好き!? と嬉しそうに聞いてくるナマエはさすがに無視した。人として嫌いではない、がイコール好きにはなりえないし、ナマエに対して軽々しく好きとは言えないような、自分でもまだうまく噛み砕けていない感情がある。知らず知らずのうちに難しい表情をしていた北を見てか、ナマエはなんとも思っていないように努めて明るく振る舞った。

「そんなんでいちいち部活やめるってしょうもないよな」
「何が嫌で何が耐えられんかは人によるやろ。少なくともバレーは個人技やないし、その状況でまともな連携なんか無理やで」
「北くん、部活って楽しい?」
「……せやな。楽しいことばっかやないけど好きなことやからな」
「そうなんや。ええなあ」

 ナマエは心底羨ましそうに、それでいてなぜか満足そうに笑う。自分が楽しめなかったことを、他の誰かが同じ思いをしていないことに安心するように。嫌な思い出は、きっと自分の中だけで仕舞い込もうとしていたに違いない。

「すまんな、嫌なこと思い出させたやろ」
「こっちこそ嫌な話聞かせてごめん! でもありがとう」
「なんのありがとうなん」
「ぜんぶ!」
「意味わからん」

 ふふふ、と楽しそうに笑うナマエにとって今この瞬間、ちょっとでええからバレーの嫌な思い出を払拭できたらええなと、いくらか続くようになったラリーの最中で北は思う。ナマエからのボールは返さず両手で受けてナマエの方へと歩み寄る。

「そろそろ予鈴鳴るし行こか」
「せやね。北くんほんまにありがとう、なんか優勝できる気がする」

 ボールを両手で受け取り胸に抱くと、ナマエは満足そうに言う。あの下手くそなレシーブでどっからその自信が来んねん。おかしくてつい鼻で笑ってしまう。

「明日もやるで」
「ええの!?」
「明日はスパイクの特訓やな」
「なに言うてんの!? 打てるわけないやん正気なん!?」
「スパイクはあかんか。ほなジャンプサーブにしよか」
「北くんは私をどうする気なん!? 私バレー部ちゃうよ!?」
「サーブ打てへんとなんも始まらんで。サーブで攻めていかな」
「……本気なん?」

 ナマエは心底不安そうな顔をしていて、そんなナマエをちらりと見て北は涼しい顔でブレザーに袖を通す。顔には出ていないだけで「からかいすぎたかもしれんな」と思っている。

「冗談や。対人パスもろくにできんやつに期待してへんわ」
「その割に北くんめっちゃキャプテンの顔しとったで……」
「あと明日スカートの下にジャージかなんか履いてきてくれるか。目のやり場に困んねん」
「中に見せパン履いてるから大丈夫やで」
「俺が気になんねん。ほれ、はよブレザー着んと汗冷えるで」
「前から思ってたけど北くんうちのママみたいや」
「ほなオカンの言うこと聞いてミョウジは先戻っとき」

 わかった! 小走りで去りながらナマエは「あ!」と思い出したように叫んだ。そのまま振り向いて北を見る。

「北くん! ありがとう!」

 満面の笑みで大きく手を振ると、今度こそナマエは行ってしまった。北がその背中に小さく手を振り返したことをナマエは知らない。
 つけたばかりの腕時計を見ると予鈴の鳴る二分ほど前だった。走れば余裕で間に合うな。ふぅ、と大きく息を吐き出して振り返る。

「で? お前らはそこでなにしとんの」

 北が問いかけると植え込みの方から「ヒッ」とかなんとか聞こえてくる。そちらの方へ歩み寄り覗き込むと、やはりバレー部二年の四人組が仲良くしゃがみこんでいた。なんでバレんねんこの人背中に目ついとるんかとかなんとか思っているが、元気な双子と真面目な銀島は自分たちの声がそこそこ大きいことにまだ気がついていない。

「き、北さん奇遇ですねえ! 俺らいま雑草抜いとるとこやったんですよ!」
「下手な嘘やな」

 その証拠に、目に見える範囲の雑草は好き勝手ぼうぼうに生えている。別に見られて困るような間柄ではないのでいいのだが、こそこそ聞こえてきた「ミョウジさんパンツ見えそうやな」はさすがに聞き捨てならなかった。自分は積極的に女子の下着を見たいと思う性分ではないが、少なからず仲の良い女子がそういう目で見られることからは避けてやりたいと思う。

「お前らもはよ戻り。あと角名、動画消せ」

 なんでバレんだよ……せっかく撮ったおもしろいネタを角名はおもしろくなさそうにすぐに消した。四人で仲良くだらだらと戻っていく後ろ姿を見送るが「あれで付き合ってへんってなんやねん……」とぼそりと呟いた声を北は確かに聞いた。
 例えばの話である。仮に自分がミョウジを好きになったとする。さっき彼女が言っていた『知らんうちに男の子が友達との仲をぐちゃぐちゃにする』という話がある。あれは“友人の好きな男がミョウジを好き”だったから成立した話だったが、そんなミョウジの幸せを快く思わない人間がいると仮定する。もしも俺がミョウジを好きになったら、またあの子は孤立してしまうんやろか。
 ボールを両腕で抱えて項垂れた、迷子の子供のような悲壮なナマエを思い出す。ナマエのあんな顔を北は初めて見た。
 やっぱりあの子は笑っとるときが一番かわいらしいな。
 できればあんな顔はさせたくないと思う。そう思っている時点で、北の立てた仮定は既に仮定ではなくなっていた。
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