どれだけ幻みたいな出来事が起こっても、今の自分を取り巻く環境が劇的に変わるわけもなくいつも通り週は明けていつも通り忙殺された。なんでこんな毎日忙しいんだよと悪態を吐きたくなることはあるけど、忙しくしていれば余計なことを考えなくて済むからある意味楽。これこそが今の私の日常だ。最初こそは頭の片隅に黒尾の顔がちらついて集中力が途切れたものの、日を追うごとに次第に平常運転に戻った甲斐もあってかなぜか今週も奇跡的に定時で上がれてしまった。

 直帰しようかなあ。
 そう思うのにちゃっかり化粧も直してウコンも仕込んだ。そこまでの準備をしてこないだの店の前に立っておきながら、一体どの面下げて家に帰れるというのか。帰っても誰もいないから関係ないけども。
 黒尾はこのお店によく来るらしい。今週も来ているだろうか。気まずいし会いたくないのに、今会っておかないといけないような気がして落ち着かない。黒尾に会えても会えなくてもどっちにしろ心がざわざわするんだろう。こういう感情になること自体が久しぶりで、しかもあんまりこの状況を楽しめていない自分がいやになる。好きな人がいるってだけで世界がキラキラして見えていた頃の自分にはきっともう戻れないんだろう。なのになんでここに来てるんだ私。ばっちり化粧まで直して。
 とはいえ私もこのお店を気に入ったのは事実だし、黒尾に再会する前からこのお店通うって決めてたし、こないだ飲まなかった自家製梅酒飲みたいだけだし、黒尾に会いたくて来たわけじゃないし。と誰にするでもない言い訳を並べ立てて引戸を開けると、この前と同じ席に座る黒尾と目が合った。

「よっ」
「……お疲れ」

 会いたくないとか思っておきながら、なんでちょっと嬉しくなってるんだ自分。情緒不安定か。相変わらず朗らかな店主がこの前と同じ席にコースターを置いたので、先週の金曜日と全く同じ並びで座る羽目になる。

「げっ、日本酒飲んでんの」
「わりーかよ」
「悪くはないけど強くない?」
「俺にも強い酒が飲みたくなる日くらいあるんですー」
「なんかやなことあった? どしたん? 話聞こか?」
「やめろそれ」

 よかった。いつも通り悪ノリできてる。お互い変に意識して終始無言になったらどうしようとか心配したけど杞憂だった。自家製梅酒のロックと料理を何品か頼んで一息吐く。

「お前も梅酒いってんじゃねえか」
「こないだ来たとき気になってたんだよね〜。飲んだことある?」
「ある。すげーうまい」
「ほんと? 楽しみ」
「うまいからって飲みすぎんなよ、こないだみたいに」
「その節は大変申し訳ございませんでした」

 カウンターに額を擦り付ける勢いで頭を下げると気をよくしたのか、黒尾が愉快そうに笑う。この前やらかした私より今日は黒尾がやばそう。黒尾も泥酔することあるのかな、私に黒尾の介抱は無理じゃない? 190cm近い男、私じゃ物理的に運べなくない? とか考えているうちに、黒尾が静かに切り出した。

「……なあ、連絡先変わった?」
「なんで? 変わってないよ」
「こないだのライン届いてねえの?」
「……あ!」

 こないだのライン、というのは『家ついたか』のことだろう。あのあとひとりで悶々としているうちに二度寝しちゃって、結婚式の余興の練習に遅刻しそうになってバタバタして、疲れて帰ってきてまた寝て日曜日は日曜日で溜まってた家事を片付けるのに忙しくて週が明けたら忙しくてすっかり返信するのを忘れていた。皆まで言わずとも大体察したようで、黒尾は呆れたように溜め息を吐く。

「てっきり一生家にたどり着けなくて今もさまよってんのかと」
「ほんとごめん私ライン返すの苦手なの」
「なんなの、原始人なの」
「返す言葉もございません」
「ま、無事帰れたんならいいけど。今度からライン返せよ。へこむから」

 まさかそれで日本酒飲んでんの。私がラインを返すのを忘れてただけで。それじゃ本当に私のこと好きみたいじゃないか。黒尾を疑ってるわけではないけど改めて実感湧かない。黒尾には申し訳ないけど、私のせいでへこんでいるのはちょっと嬉しいと思ってしまった。こういうことを思う自分がいやなやつだというのは、私が一番よくわかっている。
 改めて思う。私は恋愛のこういうところがいやだ。相手の挙動とかお互いの環境とか自分のいやな感情とか、そういうのに向き合って振り回されて消耗していくのが疲れる。楽しいことも嬉しいこともたくさんあるのは知ってるけど、振り回されるという本質においては同じだ。感情の主導権を握られて自分をうまく制御できなくなって、自分が自分じゃなくなるような感覚に酔いしれるほど私ももう子供ではなくて、そしてそういう恋愛の行き着く先を知っている。だから昔好きだった人と実は両想いだったというこの状況も素直に楽しめない。高校生の頃の私が今の状況を知ったら血の涙を流すんじゃないだろうか。でも自分の想いが報われてたことは素直に喜んでいいよ、高校生の私よかったねとどこか他人事みたいに思いを馳せていると隣から視線を感じることに今さら気づいた。

「……なに?」
「お前こそ黙り込んじゃってなに? 照れてんの?」
「は!? なんで?」
「俺がお前のこと好きって言ったから」

 さらっと恥ずかしいことを言われたので飲んでいた梅酒が気管に入る。隣で苦しみながらげほげほ咳き込んでいるというのに、相変わらず黒尾は嫌な笑みを浮かべている。

「別に照れてはない」
「あっそ。てか明日予定ある?」
「明日?」

 これはまさかデートのお誘いか。察しのよくなってしまった自分にもいやになる。大人って全然楽しくない。

「……朝ドラめっちゃ溜めてるから」
「どんぐらい?」
「2ヶ月くらい」
「結構溜めたな。んじゃ来週は?」
「見たい韓国ドラマ配信される……」
「ドラマ見てばっかじゃねえか」

 本当は朝ドラも韓国ドラマも別にいつ見てもいい。私が朝ドラ溜めてから一気に見るのなんて今に始まったことじゃないし。さすがに2ヶ月は溜めすぎたなと思うけど。私は黒尾と向き合うのが怖いだけだ。向き合ってだめになって傷ついたとき、立ち直れる自信がないだけだ。だから黒尾のことが好きなのに拒絶するという意味不明なことをしている。

「てか今さらだけど、みょうじって今彼氏いんの?」
「いない。黒尾は彼女いるの?」
「いない」

 そうなんだー、とか適当に返しながら内心ほっとした自分に気がつく。わけがわからないぞみょうじなまえ。自分は黒尾を拒絶してるくせに黒尾に彼女がいたらいやなのか。なんなんだ、わがままか。めんどくさい自分に本格的に嫌気が差す。

「つーか、だったらこの状況おかしくね?」

 と、黒尾が言うのも「確かにそうなんだよなー」と他人事みたいに思っている。困惑しているだろう黒尾と目を合わせられない。

「もっかい聞くけど俺のこと好きだったんだよな? その割にはすげーフラれてる気すんだけど」
「言ったじゃん。別に黒尾とどうにかなりたいわけじゃないって。黒尾だってそう思ってたから今まで好きって言わなかったんじゃないの」
「お互い好きなら話変わってくんだろ」
「好きだったけどそれとこれとは別じゃん」
「久々に会ったらそうでもねえな的な?」
「違う、黒尾のせいじゃない、私の問題」

 黒尾はなにも悪くない。慌てて弁明したけど、黒尾はますます困惑を浮かべる。あんまり今の自分の話とかしたくなかったけど、観念するしかなさそうだ。

「……悩みがないのが悩みって言ったけど、あれ別に悩んでないの」
「だろうな」
「むしろ悩みがない快適な状態を保っていたいというか」
「……俺そんなに悩ませるような男に見えてんの」
「黒尾だからとかじゃなくて誰と付き合ってもそうじゃない? 自分のペース乱れるじゃん」

 黒尾はたぶん付き合ったらすごい優しい。私がいやがることとか絶対しないだろうし、大事にしてくれそうなタイプだと思う。
 でも今まで付き合った人だってそうだった。噂に聞くようなクズと付き合ったことはないけど、それでもだめになった。別に最初はなんとなくで付き合ってみただけの人でもその度に疲弊した。だったら高校のとき好きで仕方なくて一緒にいて楽しい黒尾とだめになったらたぶんもう無理。

「なんかそういうの仕事とか私生活にも影響するからいや」
「まあ、それはわかる」
「別に今の仕事好きでも嫌いでもないけど社会人として責任はあるし」

 大人のフリーの男女がお互いを好きならそれでオッケーとは思えなくて、その後の保身に走るのもまた大人ならではなんだろう。さすがにこんなにめんどくさい大人はたぶん私くらいなんだろうけど。

「でもさ、好きでも嫌いでもない仕事で悩みがないって結構すげーんじゃねえの」
「そうかな」
「俺は好きなこと仕事にしてるから多少の悩みも楽しめてるとこあるけど」
「そういうのいいよね、人生満喫してるって感じで」
「そう思うなら俺のこと諦めんなよ」

 痛いところを突かれてなにも言い返せない。仕事なら割り切れるけど恋愛は理屈じゃない、とか反論しようと思えばできるけど今の自分が人生を楽しめていないのは事実だし。別にそれでもいいと思うなら、なぜ私はのこのこと黒尾に会うかもしれない店に来ちゃってるんだって話だし。理屈じゃないからこそ、頭ではわかってても黒尾が好きだから会いたくなってるんだろうし。
 自分でもなにがしたいのかわからない。理性と感情の折り合いがつかなくてうまく言葉にもできない。そんな私を見かねてか、黒尾が至って真面目なトーンで静かに話し出した。

「これうちの甥っ子の話なんだけど」
「うん?」
「あいつ飯食いながら泣くんだよ」
「なんの話?」
「で、姉貴に『これ嫌いなんじゃねえの』つったら『食べたらなくなるから泣いてるだけ』つっててさ」
「ウケる、かわいい」
「お前が言ってんのってそれと同じじゃね?」
「どこが!?」
「一緒にいたいけど喧嘩したり別れるかもしれないのがいやって話なんじゃねえの」

 確かに仰る通りではあるけど例え話に幼児を出されると釈然としない。こちとら大のいい大人なんですけど。しかもそんな和やかに見守りたくなるようなかわいい規模の話じゃないんですけど。

「まあみょうじの言い分もわかる。実際お前と再会するまで俺も今はそれどころじゃねえって思ってたし」
「その割にすごいぐいぐい来るじゃん」
「お前だから口説いてんだろ」
「もうやめて、直球で来られると調子狂うんだって」

 両手で顔を覆うと隣から楽しげな笑い声が聞こえてくる。昔からよくからかってくることはあったけど、さすがにこんなたちの悪い冗談を言うやつではなかったから本気ではあるんだろうけどもはやちょっとおもしろがってる気がしてきた。

「……じゃあ別に今後のこととか考えなくていいけど、たまにこうやって飲んだり飯食ったりぐらいはどうすか」

 でもやっぱり黒尾は優しい。言ってることとやってることがめちゃくちゃな私が、本当はどうしたいのかわかっているんだと思う。

「……それくらいならいいけど」

 なんで上から目線なんだよ、もっとかわいい言い方あるだろと自分でも思う。けど今はこれが精一杯で、本音は甘酸っぱい梅酒と一緒に飲み下した。
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