美味いビールを飲むために必要なものは何だと思う? 労働だよ!
 豪快に笑うおじさんたちを背中に、「わかるわ〜」と思いながらひとりカウンターで生ジョッキを呷る。働かなくてもお金に困らないなら私はたぶん働かない側の人間だけど、定時上がりの金曜日に飲む生ビールほど美味しいものはこの世にないのではないかとも思う。今この瞬間こそが我が人生! みたいな。華の金曜日なんてもはや死語に近いけど、ほぼ満席に近い店内を省みるに過言ではないと思う。もしくはこのお店がよっぽど繁盛しているのか。これから運ばれてくる料理にも期待ができそう。

 この町に引っ越してから早いもので3ヶ月ぐらいになる。引っ越し作業が終わるや否や残業続きで忙殺されて、まともに散策すらできていなかった。奇跡的に定時で帰れた今日こそはと井之頭五郎氏のごとく意気込んで、吸い寄せられるようにこの店の暖簾を潜った。忙しいであろう金曜日に一人飲み女子を受け入れてくれた上に、お通しの時点でもう美味しい。このお店絶対通おうとひっそり心に決めていると、建て付けの悪い引戸が音を立てる。気の良さそうな朗らかなおじいちゃん店主が「はい、いらっしゃい!」と私の隣にコースターとおしぼりを置いた。

「大将、今日ほっけある?」
「あるよー!」

 どうやら常連さんのようだ。男の人か、絡まれないといいな、と端に身を寄せると「あ、どうもすみません」と早速気前よく絡まれる。お前のためじゃないわ! と思いつつ、聞き覚えのある声と、隣に座ったやけに大きいシルエットに思わず顔を上げた。まさかそこに、かつての同級生がいるなんて思いもよらずに。

「え、黒尾!?」
「ん? あ……みょうじ?」
「そう! え! 久々!」

 思わず背中をバシバシ叩くと「いてえ! いてえって! やめなさい」とやんわり制される。とか言いつつちょっと口元は笑ってるあたり「めっちゃ黒尾だ……」としんみり感動すらする。めっちゃ黒尾だ、ってなんだよというのはさておいて、久しぶりに会った黒尾は相変わらず「いつのX JAPANだよ」と言いたくなるような重力に逆らった特徴的な髪型をしているけれどそれとなくセットはしているようで、品の良いスリーピースのスーツは背の高さも相まってめちゃくちゃ様になっている。元から同級生に比べて大人っぽいやつではあったけど、いざ大人になると「大人っぽくなったな〜」と感じた。黒尾ってこういう大人になってたのか。

「え、ちょっとびっくりなんだけど! 元気してた?」
「お陰様で。そっちは? ……って、会うなり人の背中バシバシ叩くやつが元気じゃないわけないか」

 ニッ、と歯を見せる笑い方も口の達者さも相変わらずだ。本当は高校を卒業してから主に精神的に元気じゃない時はたくさんあったけど今この瞬間全部忘れたしどうでもよくなった。ていうかまさに今元気になった。残業続きの疲れとか全部飛んだ。とは言えるわけもなく笑い飛ばしてみる。元気そうに見えてるなら私もまだ大丈夫だ。

「相変わらずだな〜。あ、でもみょうじさんたらちょっと綺麗になったんじゃないの?」
「化粧って怖いよね〜」
「自分でそういうこと言うなって」

 内心、心臓が今めっちゃバクバクいっている。血圧上がりそうだから子持ちししゃも頼まなきゃよかった。先週健康診断終わったからって油断した。ていうか今めっちゃ化粧直したい。綺麗になったってどういうつもりだ? 本当か? できるだけ明るい場所かつ大きな鏡で確認したくて仕方ない。だって高校の頃好きだった男と再会したのだから。

 黒尾とは高校三年間同じクラスで、私は一年の頃から黒尾に片想いしていた。同級生としてそれなりに仲が良かった方だと思うけど結局想いを告げることなく卒業した。進路は別だったし卒業してから一度も会うことはおろか連絡を取ることもなかったけど、こうして久々に再会してしまえば当時の記憶や気持ちは簡単によみがえってしまうのだから恐ろしい。できればもう少し心の準備をしたかった。動揺しすぎて手は震えるしのどが渇いて仕方ない。緊張をほぐすようにジョッキの中身を一気に飲み干す。だめだ全然お酒が足りない。こんな状況、酒でも飲まなきゃやってられない。すかさず2杯目のビールを頼む。

「あんま飲みすぎんなよ」
「明日休みだから大丈夫」
「……お前まさか他の男の前でもそんな無防備なわけじゃねえよな」
「そんなことないと思うけど……」

 男の人とふたりで飲んだのなんて、もはや遠い過去な気がしてそのときの自分の様子すら記憶にない。そもそも泥酔するほど飲んだのなんて社会人になってから一度もない気がする。逡巡しているうちにふたり分のビールが来たので乾杯する。まさか黒尾とふたりで飲む日が来ようとは。

「同級生と飲むの久々」
「女子会とかやんないの」
「みんな結婚とか仕事でそれどころじゃないよ。男子は? やってんの?」
「夜久と海とはしょっちゅうだな」
「ねえ夜久くんすごいよね! プロになっちゃうんだもんびっくりした」
「うちの山本もがんばってるんで応援してあげてください」
「なんかみんなすごいよね〜。コヅケンとか芸人とかモデルとかさ。有名人排出率どうなってんの」

 それに比べて私と来たら、うだつの上がらない平々凡々な庶民だ。華やかな生き方をしたいわけではないし、それなりに穏やかな生活ができれば満足だし今の仕事は別に好きでもないけど嫌いでもないから転職する予定も今のところない。プライベートだってそうだ。学生時代の同級生たちは続々と結婚や育児とライフイベントを進めていくのに、私にはそれらのイベントをこなしている自分がピンと来ない。働いて帰ってくるだけで疲れまくってるのに、世間の人々はどこに恋愛する気力が残っているんだ。晩婚化が進んでいるとはいえ、ここまで焦ってすらいないのはさすがに私だけなんじゃなかろうか。思わず大きく息を吐き出すと、頬杖をついた黒尾がこちらを見る。

「どうした。悩みでもあんの」
「なにも悩んでないことが悩み」
「なんだそれ」
「けどもうなにかに悩むのもいや。悩みって疲れる」
「悩みだからな」
「けど悩みがあるってことは充実してるってことでもあると思うんだよね」
「てか悩んでないって言ってる割にもうそれ悩んでるだろ」
「うわほんとだ! 私悩んでる! やめよやめよ」
「で、悩むのやめたら『悩みがないのが悩み〜』とか言い出すんだろ。安心しろ、お前はちゃんと悩んでる」
「ほんと? 私ちゃんと悩めてる?」
「てかさっきからこのやりとりなに、落語? もう酔ってる?」

 思わず声を上げて笑う。誰かとこうやってとりとめのない話をするのも随分久しぶりで、実際とても楽しいので思わず笑ってしまったというのもある。けど一番は、今のグズでダサい自分を誤魔化したかった。高校生の頃の私はもうちょっと夢とか希望を抱いていた気がするのに、受験とか失恋とか就活とか就職とか、そういう泥臭いものたちが私にくっついていたキラキラを少しずつ奪っていってしまった。大人になるってそういうことだと言われればそうなんだろうけど、少なくともキラキラしていた頃の私しか知らない黒尾に今の私を見られたくなかった。

「黒尾は? 今なにしてんの?」

 ぼろが出る前に黒尾に話を振ると、懐から名刺を差し出される。受け取って更に驚く羽目になった。

「え、すご」
「だろ」

 バレーボール協会競技普及事業部 黒尾鉄朗。バレーの仕事やってるのか。思わず名刺をまじまじと眺めてしまう。

「あんま見んな。照れるだろ」
「黒尾ほんとすごいわ」
「そうか?」
「好きなこと仕事にできてるじゃん、すごいよ」
「照れるからやめろ」

 そう言いながら照れてる様子はない。それどころか嬉しそうなのは、恐らく充実した毎日を送っているからなのだろう。
 高校の頃、何度も試合を見に行った。見終わる度にあまりのかっこよさに瀕死になっていたのをよく友達に介抱してもらっていたけれど、今も黒尾はあの頃のままなのだと知って私も嬉しかった。だけどほんの少しだけ寂しく思ってしまったのは、私がつまらない大人になってしまったからなのだろう。
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