生身で全力疾走したのなんていつぶりだろう、なんて考えていた。息は絶え絶えだし足は棒、酸素を求めるあまり冷たい空気を吸い込みすぎて肺から風邪をひいてしまいそう。肩で息をしながら歩を進める。公園のそこかしこにいつかの戦闘の形跡があって“ここは一般市民が足を踏み入れてはいけない場所”なのだと再確認する。

俺の思い過ごしであってほしい。悪い予感など杞憂で終わるに越したことはない。まず先に男子トイレを覗き込む。南京錠なんてどこの個室にもやっぱりついていない。背筋を、こめかみを伝う汗が妙に冷たいのは空気に冷やされているだけなのだと思い込みたい。
続いて女子トイレに足を踏み入れる。南京錠のかかった奥の個室は、依然そこにある。

「ほんとに誰もいないの?」

いないなら、本当にそれでいい。あの女子たちはやむを得ずここを使用しただけ、警戒区域に立ち入ったことはこの際黙っていてあげるから、それ以外なにも悪いことなんてしていないのならそれでいい。あの子は俺の心配など露知らず、今ごろ暖かい家でぬくぬくと平穏に過ごしていればそれでいいのだ。

声を掛けても返事はない。南京錠の鍵はどこにもない。ノブを回してもやっぱり開かない。だけどこの目で見るまではこの状況をなにも信じてはいけない。個室同士は完全に壁で仕切られているわけではなくて上の方に人が一人入れるくらいの隙間がある。鍵のかかった個室の隣に入り、蓋を閉めた便器の上に立ち上がる。自分の背が二宮さんくらい高かったらよかったのに、なんて嘆きながら踵を浮かせた。それでも隣を覗き見るにはまだ届かなくて、貯水タンクに足をかける。緊急時だというのに脳が場違いなことを考え始め、俺の体重を支えきれずにここでバキッ、とかいったら笑えないよなあ、と喉から乾いた笑いが込み上げた。笑っていられるのも束の間だったけど。

「……嘘でしょ」

悪い予感は見事に的中してしまった。

みょうじなまえは、そこにいたのだ。しかも全身ずぶ濡れの状態で。この真冬に、暖房なんて当たり前についていない、この警戒区域のトイレの中に。震える体をおさえるように、自分の体を抱いて俺を見上げている目はぎょろりと光っていた。

「なにしてんの?」

なにしてんの?声を掛けたのに。扉の前まで行ったのに。なんならさっき俺が隣の個室に入ったのも、気づかないわけがないのに。“助けて”の一言さえ言ってくれれば、扉を蹴飛ばしてでもさっさと出してやったのに。

自分の悪い空想が杞憂で終わることを願っていた。だけど現実はそんなに甘くはなかったらしい。一番実現してほしくなかった事態が目の前で起きていた。頭から濡れているのは、その辺に転がっているバケツでかけられたのだろう。それなのに彼女は相も変わらず呆然と俺を見上げたまま、うんともすんとも言わない。この期に及んで“助けて”の一言も音を上げない。

一月中旬の真冬の、暖房もない屋外トイレで頭から水をかけられた状態で放置していたらどうなるかくらいちょっと考えたらわかるだろう。凍死だってありえる。腹の底が静かにぐつぐつと煮えくり返るのを感じていた。こんなことを平然とやったさっきの女子たちにもだし、こんな状態でも黙っている目の前の女の子にも、腹が立っていた。

「口が聞けないわけじゃないよね?」

答えを促すように訊ねた。彼女が答えるまで、俺は何度でも同じことを聞くつもりでいる。もどかしい彼女に対して苛立ってもいた、だけどなにを考えているかわからない怖さも同時に感じていた。得体の知れないものを怖いと思うのは、いつだって人間の本能だ。しばらくして彼女がこくりと頷いた。

「じゃあなんで返事しなかったの?死にたいの?」

俺の問いに俯いて、彼女は首を横に振った。じゃあなんで。意味がわからない。意味がわからなすぎて、途方に暮れそうだ。

「じゃあ俺に助けられるのがそんなにいや?」

彼女はいつだって俺の姿を確認すると、大きな瞳で睨み付けてきた。自分をいじめてくるやつらにはなにも言わないくせに、俺には敵意を視線で伝えてきた。俺のことが気に食わなかったんじゃないかと荒船は言った。カゲは俺を嫌いな理由を「知らない」と言った。殊更に人当たりよく接してきたつもりだけど、俺は自分でも知らないうちにいけすかない雰囲気を醸し出しているのかもしれない。だったら仕方ないよな、と思うけど。でも自分が命の危機に晒されているというのに助けを乞いたくもないほど嫌われているなんてさすがの俺でも落ち込む。俺を毛嫌いしているカゲですら、たかが例え話でも俺が泣いて土下座したら助けると言った。日々防衛任務にあたるボーダー隊員だから命に関して過敏なのもあるかもしれない。だけど命と嫌悪感を天秤にかけたとき、カゲみたいなやつの方がきっと少ないのだ。そうだとしても。

「ここで死なれても夢見悪いから、ドア壊すよ」

このまま返事を待っていては埒が明かない。彼女より先にそろそろ貯水タンクの方が音を上げそうだ。貯水タンクから降りようとした俺の耳に、蚊の鳴くような声が聞こえてくる。

「待って、ください」

そのとき初めて俺は、この女の子の声を聞いた。

「違うんです」
「なにが?いい加減にしないとほんとに死ぬよ」
「すみませんでした」

彼女は震える体を抱き締めたまま、深く頭を下げた。俺は女子トイレの覗き魔みたいな間抜けな体勢で、ただその細い背中を見下ろしている。

「ゴミ、投げたことです」

突拍子もなく言われたことに、俺は思わず面食らう。忘れもしない、理不尽だと思った出来事のことを、今、なぜかこのタイミングで、本人が謝ってきたのだから。

「急に触られて、びっくりしたんです、悪気はなかった、んですけど」
「それはあとで聞いてあげるから今はいいよ、まずここから出よう」
「よくないです」

ゴミを投げられた本人である俺がいいと言ってるのに、彼女の口は止まらなかった。その間にも体温はどんどん奪われていく、震える唇は青くなっていた。

「あんなことしたあとでも色々、机の落書き消したのも先輩ですよね?私、ずっと謝りたくて」
「だからもういいって、怒ってないよ」
「よくないです、謝るまで、お礼言うまで、私は先輩に助けてもらう資格なんてないです」

こうしている間にも体力はどんどん失われていっているだろう。それなのに彼女は頑なに“助けて”なんて言わない。命よりも礼の方が大事なのだと彼女は譲らなかった。

「ずっと謝りたかったんですけど、私なんかが先輩に話しかけていいのかわからなくて、本当にすみませんでした。それと、ありがとうございました」

彼女は今も顔を上げない。だけどきっと今も、大きな目はぎょろりと床を捉えているに違いない。
この子は俺を睨んでいたんじゃない。ただ謝る機会を窺っていただけだ。そしてその目はいつでも涙を堪えていたから大きく見開いていたのだろう。“私なんか”と自分を卑下するところまで来ているのだ、悪意をものともせず動じなかったわけじゃない。受け入れるしかなかったのだ。“私なんか”いじめられても仕方ないのだと、そうすることでしか自分の心を守れなかったのだ。

「わかった、もう全部聞いたし全部許したから気は済んだでしょ?早く帰らなきゃ親御さんも心配するし」
「でも私、帰れません」
「え!?この期に及んでなに言うの。さっきのやりとりの意味」
「この格好じゃ心配します」

まあそりゃあ確かに、この真冬に頭から濡れた娘が帰ってきたら仰天してしまうだろう。「ちょっと暑くて水浴びしてきたの」なんてまず通じない。気がおかしくなったのかと違う面でも心配をかけてしまう。だからといってここにいたってなにも変わらないし髪や服が乾くわけでもない。というかこの考えている間にも刻一刻と彼女の体は冷えていく、今は考える時間すら惜しい。

「俺がどうにかするから、とにかくドア壊すよ。危ないから端寄って」
「ま、待ってください」
「もう、今度はなに!?」
「鍵……置いていってくれたんです」
「持ってんのかよ!?」

浮かせていた踵が、全力疾走でへとへとになった膝が、がくりと力を失ったのを感じた。

2016.07.14

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