世の中には強者と弱者がいる。そして勝者と敗者、他にも人間は大体二種類で分けられる。

弱いからといって負けるわけでもなく、強いからといって勝つわけでもない。少なくとも俺は今、目の前で行われている幼稚かつ陰湿な悪意を見ながらそう思う。

本当に強い人間は、不必要に誰かを攻撃したりしない。そして本当に強い人間は、ぶつけられる悪意を惨めにただただ耐え忍び抗いはしない、決して無意味な暴力に勝とうとはしないのだ。俺はそんな女の子を他にも一人知っている。今はこの世界にはいないけれど。

俺は今、ものすごく嫌なものを見ていた。それは冬休み明け、三学期の始業式が行われている体育館の後方、二年生の列での出来事だった。三年である俺がなぜ二年の列に混じっているかというと、純粋に遅刻しただけ。別にバックれてもよかったけどサボりをキメて担任にドヤされるのも面倒だと思ったから「遅れてきたけど参加はしてましたよ〜」という既成事実を作るために、体育館の扉付近に位置する二年の列にいるという至極単純明快な理由である。まさか朝からこんなに不愉快なものを見るとは思わなかったけれど。

不愉快なもの、それは俺がちゃっかり混じっている二年D組の列で行われていた。最初は黙って校長の話を聞いていた生徒たちだが次第に飽きてきたのか、誰かが一人の女子生徒に向かって紙屑を投げたのが発端となって、今では誰からともなくその女子生徒にあらゆるものを投げている。女子が意外と陰険だというのは姉二人の経験談で知っているけれど、見れば男子も平気でやっている。小柄な女の子に対して恥ずかしくないのかよ、男が廃るぞ、と見ているだけで不愉快な光景だった。クラスの結束力といえばそこまでだけれど、一丸となる方向性が明らかに間違っている。俺が顔をしかめていることなど露知らず、依然少女に悪意は投げられていた。
絶対使用済みだろっていうティッシュや、床の剥がれかけたテープ、なんで今持ってんの?と問いたくなる消ゴムとかエトセトラ。しまいには脱いだ上履きを女子生徒の細い背中に向かって投げた奴までいる。ぱこっ、という間抜けな音が体育館に響いたような気がしたけれど、列は後方かつ両端を一年と三年で固められている、つまり中央に位置しているため教師にその音が届くにはいささか遠すぎた。

先ほどから色んなものを投げられ受け止めていた女子生徒は、さすがに上履きほどの質量を持つものを投げられびくりと肩を揺らした。それを見て、さざ波のように小さな笑いが押し寄せる。ーー誰だよ靴投げたやつ、さすがにバレるぞ、ウケるーーいや見てるこっちとしては全然おもしろくないけど、と言いたくなる。とはいえなにも気づかず壇上で熱弁を奮っている校長の手前、ここで騒いだら俺が「犬飼うるさいぞー」と注意されるんだろうし俺は口を噤む。それにそもそも一学年下のいじめに関与するつもりは毛頭ない。見て気分のよいものではないが「いじめよくない、みんな仲良く!」なんてしゃしゃり出る気もなかった。なかったのだ、本当に。俺の前にいる男子生徒が、自分の靴の裏に刺さっていた画鋲を引っこ抜いて振りかぶるまでは。

ダーツの要領で狙いを定め出した男子を見て「それはやばいって〜」とくすくす笑う、隣の女子。心の底からやばいと思ってなさそうな、軽い声色に俺はゾッとした。
高二にもなってなにやってんの、とか、分別ぐらいつくだろ、とか、本当に刺さって怪我したらどうすんの、とか、言いたいことは山ほどあった。山ほどあったけど、言葉を発する前に目の前の少年の指から今まさに画鋲は発射されようとしている。しゃしゃり出る気はなかったけれど、見て見ぬふりをできないのもまた事実だった。気づくと俺は、目の前の男の子の腕を掴んでいた。

「危ないからやめなよ」

念を押すように声を掛けると、腕を掴まれた少年は驚いたように俺を振り返る。一瞬、誰だよこいつ、とムッとした顔をしたけれど、俺が三年であることに気がついてすごすごと手を引っ込めた。その様子を見ていた他の生徒は「調子乗りすぎ」と依然くすくすと笑っている。

調子乗りすぎ、それは彼に言った言葉なのか、俺に言った言葉なのか、それはわからない。いじめなんてとてもじゃないけど正当化できない卑劣な行為が罷り通っている彼らにとって、それを止める俺の方が“調子に乗っている”と思われているのかもしれない。三年である俺に報復しようなんて奴はいないだろうけど、いじめなんてそもそも関わらない方が楽だということも知っている。俺は別に見ず知らずの女の子がいじめられているのをわざわざ助けるような正義感は持ち合わせていない、ただ爽やかな朝にこんな気分のよくない光景を見たくないと思っただけだ。

そのとき、先ほどまで小さな背中に思う存分悪意をぶつけられていた女子生徒が俺を振り返ったような気がした。長く垂れた前髪のせいで顔はよく見えなかった。



集会が終わって生徒たちは一様にして自分のクラスへと目指す。扉を目指す人、人、人の群れ。クラスの奴と合流して行くか、と扉付近で突っ立っていると、さっきの女の子がしゃがみ込んでいるのが見えた。どうやら投げられたゴミを拾っているようだった。

爽やかな朝に、一人の女子生徒によってたかってゴミを投げつけるようなあんな気分の悪い光景は見たくなかった。そして今、こんな悲しい光景も見たくなかった。どうして君がそんなものを拾う必要があるのって、そんなもん投げたやつが悪いんだからそいつらに拾わせればいいじゃんって、そう思った。そして、君がそんな風になにも言わずに悪意を受け入れるから事態はどんどん悪くなっていくんじゃないのって、そんなことも思う。気づけば俺は、その子の背中に話しかけていた。

「さっき見てたけど、いつもあんなことされてるの?ひどいよね〜、誰かに相談した?」

その子は俺を見上げることもなく、ただひたすらに無言でゴミを拾い集めている。俺の言葉は届いていないみたい、無視ってやつですか、そう気づくと途端に虚しくなってくる。それでも話しかけずにはいられなかった。

「嫌なことは嫌って言わないと収拾つかなくなるよ、言えないならせめて担任に話してみてもいいと思うし。そういうのはチクリって言わないんじゃないかな」

それでも尚、彼女は俺の方を振り向きもしない。別にいいんだけど、先輩からのありがたーいお言葉は素直に受け取ってくれてもいいんじゃない?とは思う。自分の善意が空回っていることなどこの際どうでもいい、別にこの子を助けたいだなんてそんな正義感を振りかざすつもりもない、だけどこの子はこのままでいいと思っているのだろうか。不特定多数の悪意の塊をぶつけられて、平気でいられるのだろうか。少なくとも俺なら無理だ。大体のことなら受け流せても、こんな理不尽な暴力には屈する必要がない、理由もない。
だけどそれはあくまでも俺の主観でしかないのだ。この子のことは可哀想だとは思うけれど、彼女にとっては余計なお世話なのかもしれない。見ず知らずの先輩、しかも異性に同情されても余計に惨めになるのかもしれない、放っておいてほしいと、願っているのかもしれない。だから俺をシカトしているのかもしれない。
世の中には理解できないことの方が多い。俺は全知全能の神にはなれやしない。だから彼女とわかりあえないのも無理はない。そもそもこの世界にいる全員が全員誰とでもわかりあえたら戦争なんて起きていない。だからこれは仕方のないことなのだ、そう納得した方がいいんだろうけど。

それでもやっぱり、見ていられない。床に散らばるゴミを拾う彼女の背中に、肩に、髪に、いくつも投げられた綿ゴミや紙屑が引っ付いている。この光景を見て、この健気でいたいけな女の子を可哀想だと思う心まで否定されちゃたまらない。

「つらくなったら誰でもいいから大人に相談するんだよ」

シカトされる覚悟でそう付け加えてかがむと、彼女の肩についたもっふりとした綿ゴミを指で摘まんだ。シカトされてもいいと思っていた、思っていたけど。

「ヒッ……!?」

俺の指先が彼女の肩に僅かに触れた途端、彼女は目を剥いて振り向いた。小さく悲鳴を上げながら。そして思いの外近くにあった俺の顔に驚いたのか、ビャッ、と飛び退いた。

「え、ごめん?」

いやなんで俺が謝っているんだろう、驚かせてしまったかもしれないけど俺悪いことしたかな、と頭では冷静な自分がいた。だけど俺の足は完全に立ち竦んでしまっていた。

彼女は尚も、大きな目を剥いて俺を睨み付けている。怯えたような、だけど明らかな敵意をもって。というかこうして対峙してみるとこの子、結構やばい。

後ろ姿ではわからなかったけれど、井戸から這い出てくる女霊を彷彿とさせるほど前髪は長く、顔のほとんどを覆い隠している。ほっそりとした脚は生まれたての小鹿のように震えていて、今時の子にしてはスカートが長すぎる。ていうかなによりも目が、その目が、怖すぎる。ぎょろりと大きな目をかっ開いて、青白い唇をわなわなと震わせて、俺に確かな敵意を向けてくる。ていうかなんで俺が睨まれてるんだ?そんな疑問が頭に沸くけれど、彼女の目を見ているとあまりに怖すぎてなにも言えなくなる。

「ごめんねびっくりさせて、肩にゴミついてたから」

今しがた彼女の肩から拾い上げた綿ゴミを掲げてみせると、彼女の視線は俺の手元へバッと向く。相変わらず彼女の目は血走ったまま。俺が君にこれを投げるかよとは思うけれど、先ほどまで彼女に向けられていた悪気の数々を思い返すと「またゴミを投げられる」と思っても無理もないのかもしれない。

「投げないよ、おいで。背中とか髪とかまだ」

ついてるから、そう続けるはずだった声は彼女から投げ付けられた紙屑が命中したことにより音になることはなかった。

2016.07.11

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