別に待っても待たなくても、春は遂に今年もやって来た。早く来てほしいようなでも来てほしくないような、そんな複雑な気持ちなどお構い無く今年もやって来た。毎年そんな風に春はやって来るのだろう。

卒業式が終わるなり早々に女子に囲まれた。写真お願いしますとかなんかくださいとか色々言われて快く応じてきたけれどたった一つだけ譲れないものはあった。
学ランの学校では女子が好きな男子から第二ボタンをもらうけれど、ブレザーであるうちの高校ではネクタイが本命だった。俺も何人かの女の子にせがまれたけれど「これはあげたい子がいるんだ」と断った。別に約束していたわけでもない、ほしいと言われたわけでもその子と付き合っているわけでもない。でも俺はあの子にあげたいと思った。

女子の波がようやく引いて、外したネクタイを手に目当ての人物を探す。幾度となく探してきた子だ、こうして彼女を探すのは今日で最後になるのかなと思うと途端に名残惜しくなってくる。卒業するということはこういうことだ。当たり前だった日常が突然当たり前じゃなくなってしまう。そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、一人の女の子がきょろきょろと辺りを見回して誰かを探していた。目が合って、俺を見つけるなり駆け寄ってくる。あの子が探していたのが俺なのだと実感すると、少しだけ頬が緩んでいく。

「犬飼先輩!」

駆けながら俺を呼ぶ声がする。彼女は一生懸命走っているのに、なぜかスローモーションに見えた。走り寄る彼女を見ながら、初めて彼女と出会った日を思い出していた。

小さな背中にたくさんの悪意をぶつけられていたあの子は、それがなんてことないように努めて耐えていた。時おり肩を震わせて、本当は怖かったくせに誰にも助けなんて求めなくて、まして向けられた善意すら悪意だと勘違いした。あれからまだたったの二ヶ月、たった一人であらゆるものから耐えていた女の子は今、俺を探して見つけて走り寄る。そう思うとなんて感慨深い光景なのだろうと目の奥が熱くなる。

「先輩、卒業おめでとうございます」

肩で息をするなまえちゃんに思わず笑いそうになる。あの女子トイレ置き去り事件の日、俺もこうして彼女を探して走ったものだ。その週明け、彼女のかわいいお弁当箱が宙を舞った日も、近界民による侵攻の日も。今やっと、彼女の方が俺を探しに来てくれたことが嬉しい。

「先輩、制服が」

俺を見上げて彼女はぎょっとする。ブレザーのボタンなんか袖ボタンまで全部持っていかれて、校章やその他もろもろもはや今の俺の制服は制服という体を保っていないただのぼろっちい布。追い剥ぎにでもあったのかという目で俺を見る彼女に思わず笑う。

「俺人気者だからぜーんぶ取られちゃった」
「えー……」

がっかりしたのかただ単にボロボロになってしまった制服を痛ましく思っているのか、なまえちゃんは口元を引くつかせている。あげる気満々だったネクタイは、彼女を見つけた瞬間に後ろ手に隠した。ちょっとがっかりしてほしかった。

「でもこれだけは死守してきたよ」

そう言って彼女の目の前にネクタイを差し出す。目を丸くしてそれを見つめる彼女は、意味がわからないのか首を傾げている。

「これはなまえちゃんにあげようと思ってた」

がっかりしたそのあとに、ぱあっと綻ぶ顔が見たかった。彼女があどけなく笑ったのを見たあの日から、俺はこの子の笑う顔が見たいと思うようになっていたのかもしれない。

「ネクタイ……ですか?」
「そ。俺からのがんばったで賞」

アフトクラトル侵攻の日。あの日俺は彼女を助けたわけじゃない。だけど本当に伝えたいことはちゃんと伝えた。その上で今、彼女はこの世界で生きている。彼女の心に今も住まう近界民を倒したのは俺じゃなくてこの子だ。戦ってもいいのだと、この子が自分で気がついた。俺はそれを伝えただけに過ぎない。

「折角だからもらってよ」
「でも……」
「いいから」

ネクタイと俺を交互に見やり、彼女はなにを思ったかおもむろに自分のネクタイを外し出した。そしてそれを俺の首にかけ、結びだす。

「えっ、なんで!?」
「サッカー選手は試合のあとにお互いの健闘を称えてユニフォームを交換するらしいです」
「へえ、サッカー好きなんだ?意外」
「私じゃなくて、親戚が」

意味がわからないまさかのネクタイ交換に「ああこの子ネクタイをあげることの意味をわかってないんだな」とそのとき初めて察する。そういう俗なことには疎いと知ってはいたけれどまさかここまでとは思ってもみない。空回りもいいところだ。
だけど彼女は“試合のあとに”と言った。彼女と近界民の戦いも終わったということなのかなと思うと少しだけほっとする。

「いやちょっと待って、これじゃ俺が近界民なの?」
「なんでですか?」

だって試合のあとに選手たちがユニフォームを交換するのは“戦った相手”とだ。いつの間に俺は彼女の中で敵と見なされていたんだと肩を落とす。

「細かいことはいいんです、私からの気持ちです。一年も使ってないのでまだそんなに汚くないとは思うんですけど……」
「言うほど気にしてないよ、ありがとう」

照れくさそうに目を細めてネクタイを結ぶ彼女を見ていると胸の奥が熱くなる。どうせすぐに卒業するのだからと世話を焼いたこの子が見違えるほど変わった。まだもう少しこの子の成長をそばで見ていたいと思ってしまった。この子の笑う顔を見ていたいと、思ってしまった。

「すみません、人の結ぶの慣れてなくて曲がっちゃいました」
「うん、ほんとにひどいな」
「すみません結び直します」
「いいよそのままで」

不格好な結び目に頬が緩む。下手くそだけど、それでも彼女ががんばった証だからそのままでいい。なんなら誰かに笑われたっていい。このままでいいんだよって、俺は胸を張っているから。

「それで?なんか用事あった?」

ネクタイをもらいに来たわけではなさそうだけれど、この子は俺を探していた。なにか伝えたいことがあったのかもしれない。俺を待たせまいと焦るあまり、俺に結んだのと同じように自身のネクタイも不格好に結ぶと彼女は深く息を吸い込んだ。

「先輩」

俺の目をまっすぐに見つめる彼女の目は、まるで初めて俺を見た日のように強い意思を宿していた。俺はこの目を睨まれていると勘違いしていたな、なんて思い出してみる。

「短い間でしたが、本当にお世話になりました」

そう言うと彼女は、それはそれは深々と頭を下げた。あの女子トイレの日もそうだった。ごめんなさい、と頭を下げたこの子に俺は面食らったのを覚えている。あの日からたったの二ヶ月。はじまりがあれば当然、終わりは来てしまう。願っても、願わなくても。だから俺は最後に、後頭部なんかじゃなくてこの子の顔が見たいと思った。なんなら彼女の言葉次第では今日を最後になんてしなくていい。いくら確信していても俺のこと好きなんだろ、なんて言えるわけがないし、俺はこの子の口からちゃんと聞きたいと思った。

「こちらこそお世話しました」
「……ご迷惑でしたよねすみません……」
「全然?いいから頭上げてよ」

おずおずと、ゆっくり顔を上げた彼女は気恥ずかしいような申し訳なさそうななんともいえない表情を浮かべていて、堪らず俺は吹き出した。

「なんて顔してんの」
「先輩」

意を決した彼女が、情けない顔をしながら俺を見る。情けないながらも、ちゃんと覚悟が伝わってくるからつられて俺もなにも言えなくなる。

「私、先輩と同じ大学に行きます。だから一年、待っててもらえませんか?」

まっすぐな視線と言葉に射抜かれて、今度は俺が間抜け面をさらす番。言葉の意味を理解して、喉から笑いが込み上げる。

「じゃあ俺から宿題を出そう」
「え!?」
「大丈夫、簡単なやつだから。あ、でもなまえちゃんには難しいかも」
「えー……」

困惑を浮かべる彼女の表情は憑き物が落ちたように純粋だ。俺がこの子にとっての近界民になるのはごめんだけど、俺のことで頭がいっぱいになってしまえばいいとも思う。

「ネクタイあげたことの意味、来年までに考えといて」

小さな頭を撫でると、やっぱり彼女は不思議そうに俺を見上げた。本当にネクタイの意味をわかっていなかったんだなと思うと悲しいけれど、来年の楽しみがひとつ増えたのでよしとしよう。会えない時間が長くても、この単純な宿題が俺と彼女を繋いでくれるならそれでいい。それにこの子には今、わからないことを誰かに聞ける環境がある。だから安心して課題を投げられる。もしわかりませんでしたと言われても、そのときはちゃんと答えを教えてあげよう。

別に待っても待たなくても春は毎年やって来る。早く来てほしいようなでも来てほしくないような、そんな複雑な気持ちなどお構いなく毎年やって来る。
でも俺は今から来年の春が楽しみで仕方がない。桜と一緒に満開の笑顔を咲かせた彼女に会えるのが楽しみで仕方がない。来年の春は、どんな風にやって来るのだろう。そしてそのとき、この子の心に住む近界民は全て撃ち落とされているといい。きっとこれからも近界民はやって来る。次から次へと、待っても待たなくても。勇者が揺らぎそうになったとき、これからも俺が手を引くカンスト僧侶であるようにと願った。

2016.09.02(fin.)

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