しあわせな朝に

 ブラインドの隙間から漏れる日差しで目を覚ます。目覚まし音に邪魔されない休日の朝、一番に見るのが自分の腕の中で眠るなまえだということには今でも慣れない。壁に掛けてある時計を確認して、まだ起こすのは可哀想だなと思い、まどろみながら彼女の寝顔を眺める。

 なまえと付き合い始めて二ヶ月が経った。毎週末会うのに理由や口実はいらなくて、お互い名字で呼び合っていたのが名前呼びになり、触れるのに躊躇っていた手は当たり前に繋げるようになった。
 なまえは出会った当初から変わらずよく気が利く人で、一緒にいると落ち着くので段々気を遣わなくなった。付き合い始めて知ったのは朝にはめっぽう弱いこと、化粧を落とすと眠そうな目をしていて、虫が苦手なことは昨夜歯ブラシを咥えたまま洗面所に出た蜘蛛の始末を頼みに来たことで判明した。

 日々愛しさが募る生き物なんて、飼っているオウムくらいだと思っていた。今のところ全人類の中でぶっちぎり一位で好きと言っても過言じゃない。彼女の小さな後頭部を手のひらで包み、やわらかく白い頬を親指で撫でる。

 昨日の夜は彼女と餃子を作ったが、セブンイレブンに胃袋を掴まれているというだけあってなかなかに不器用な手際だった。不器用ながらも真剣な彼女がおもしろくてつい笑ったら拗ねられてしまったので、罪滅ぼしに朝食でも作ろうか。朝は絶対米派のなまえのために、この前少しだけいい焼き海苔を買っておいた。自分のためだけだったら絶対に買わないような代物だ、喜んでくれるといいのだが。ぐっすり眠りこけるなまえの額に唇を落とし、彼女を起こさないように頭を持ち上げる。痺れている腕の感触だけが夜の余韻を引きずっている。



「……いいにおいする〜」

 味噌汁のにおいに釣られたのか、なまえがぼさぼさ頭で起きてきた。眠そうな目を拳で擦る仕草が猫っぽい。
 盆になまえが地元で買ってきた味噌なので、彼女にとっては馴染みのあるにおいなのだろう。俺も気に入って使ってはいるのだが、如何せんこの辺では手に入らない味噌だ。

 彼女の生まれ育った場所に俺はまだ行ったことがない。もしも今後行く機会があるとするなら近くで演習があるときか、プライベートならば旅行か。プライベートだとして彼女と行くならば、そのときは彼女のご両親に菓子折りを持って挨拶に行くべきなのだろう。なまえの両親も彼女に似て穏やかでよく笑うかわいらしい人に違いない。

 しかしご挨拶に行くとしてそのときはなんて言うべきなのか。お宅のお嬢さんとお付き合いしています、といきなり押し掛けてご両親は驚かないだろうか。彼女のお父さんには殴られるかもしれない、それぐらいの覚悟はできている。会ったことも見たこともない彼女の両親をぼんやり思い浮かべていると、彼女が腰に抱きついてきた。

「(危ない)」
「子供じゃないし」
「(もう少しでできる。顔洗ってきて)」
「はーい」

 ぶかぶかのTシャツを着た後ろ姿が洗面所へ消えるのを見届け頬が緩む。作り置きしている漬物を冷蔵庫から出し、焼きたてのだし巻き玉子を食卓に並べる。今やセブンイレブン以上に彼女の胃袋を掴んでいるのではないかと自負している。

 しかし、彼女にも女としてのプライドがあるようだ。

「私もね、料理教室とか通おうと思って」

 お気に召したらしい焼き海苔をごはんに巻きながらしみじみ彼女は言う。海苔に関しては俺が焼いたわけではないので料理の腕もなにもないのだが、どうやらそういうわけではなさそうだ。

「いっつも作ってもらうの悪いし。昨日の餃子はさすがにへこむ」

 餃子を上手に包めず難しい顔をするなまえを思い返すと笑いが込み上げる 。焼いている途中で皮が破けてしまい中身をぶちまけてしまったのは焼いていた俺のせいでもあるのだが、彼女としては由々しき事態だったらしい。危機感を覚えた彼女を安心させるべくフォローを入れる。

「(料理は得意な方がやればいい)」
「……っていうけどさ〜。さすがにね……」

 続きを言い淀む彼女が“いつかお嫁に行ったとき困るでしょ”と言いたげで、“いつかっていつで、誰とする気だ?”と深く突っ込めずにいる。年頃のカップルにとってこの手の話題はデリケートだ。

 俺は彼女との将来を考えているが、彼女も同じように考えているかと言われると正直よくわからない。なまえが俺を好きでいてくれているのは充分伝わってくるが、だからといって結婚となると話は変わってくる。なまえは仕事にやりがいを感じているようだし、女性にとって結婚は男以上に人生を賭ける決断であると思うのだ。

「(俺が教えようか?)」
「彼氏に料理教わるとか屈辱……」

 屈辱とはなんだ、とは思うが女心というのは複雑だ。知れば知るほど未知数で、知れば知るほどわからなくなる。

「(……なまえが料理教室行ったら会う時間減るから嫌だ)」
「平日の仕事終わりに行けるの探すから大丈夫だよ」

 樹は寂しがり屋だなあ、と幸せそうに笑って玉子焼きを頬張る彼女に気恥ずかしくなる。別に俺は断じて寂しがり屋なんかではないし寂しいからなまえに会いたいわけでもないのだが、なにを言ったところで小っ恥ずかしさに拍車をかけるだけなのでなにも言い返さないだけでぐうの音も出ないとかそういうわけではないのに、押し黙り味噌汁を啜る俺を見てなまえは笑う。別に悔しくない、決して。

 今この瞬間こそが幸福だと思ったし、この幸せは当たり前ではないと理解こそしていたがまだ続くものだと思っていた。なぜならまだお互い好き合っているから。この幸せは誰にも壊しようがないと思っていた俺は、たぶんいつかどこかのおとぎ話で愛する人と離れ離れにされた牛飼いと同じくらい愚かだったのかもしれない。彼女と付き合い始めたきっかけをくれた夜に得た教訓を忘れるくらい、朝の光は強烈に幸福だけを照らしていた。
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