始めるなら指先から

「久しぶりに見るとすごいきれいでしたね、話もなんていうか新発見? っていうかそうだったんだ〜って感じで」

 約一時間の上映が終わり外に出ると日はすっかり暮れていたが、さっきまで見ていた人工の星空と違い現実の空に星は瞬いてなどいなかった。山の方に行けば光もなくて星もよく見えるのだが、街中ならこんなものだろう。わかっていながら改めて夜空を見ると、ずいぶん虚しい気持ちになった。

 虚しい気持ちを抱えているのはどうやら俺だけではないようで、駅まで向かう道中のみょうじはいつにも増して口数が多い。まるで沈黙を恐れているように、無理に喋っているように見える。今日はやけに喋るな、と思いみょうじの方を見る。しかし目が合うとすぐに視線を逸らされ、そのくせ口ばかりはずっと動いている。どうしたんだ、と思考を巡らすも推測できる理由としてはさっきのプラネタリウムしかない。
 いくら暗闇とはいえさすがにガン見しすぎて怖がらせてしまっただろうか。
 反省の意を伝えようと目を合わせるもそれは逆効果となり、口を挟みたいのに挟ませてももらえない。ちなみにみょうじが「小さい頃に祖父の家で見た天の川」の話をするのはこれで七回目で、「職場の福祉施設でやる七夕イベント」の話をするのはなんと十三回目だ、同じ話を何度もするくらいなら一度くらい俺に謝罪させてくれたっていいと思う。
 合ったり合わなかったり逸らされたりする視線のやり取りは何度も続き、かつてないほど挙動不審なみょうじと歩いているうちに遂に駅へと着いてしまった。

「……じゃあ、私ここで」

 ようやく目が合ったみょうじの視線は遠慮がちで、いつも別れるときと同じような寂しそうな目をしている。暗闇ガン見男のキモい俺に向けるには、その視線は少し甘すぎやしないだろうか。

「(今日は遅くまでごめん)」
「いえ、大丈夫です。全然」

 日の長い夏とはいえ、二十時ともなればさすがに暗い。家まで送っていこうかとも思ったが、さっきから俺に気を遣い続けているみょうじを見ているとそんな提案をすることも憚られた。

「(本当に、ごめん)」
「いやいや、本当に大丈夫です」
「(そうじゃなくて、さっきの)」
「え?」

 別れ際までこの空気を引きずりたくなくて、ようやく訪れた俺のターンで謝れたというのにみょうじは目を丸くした。なんとなく、みょうじを怖がらせたまま帰したくなかった。もう今のように会ってくれなくなるのは嫌だった。だから謝ったというのに。

「……すみません、なんの話ですか」
「(だから、さっきの)」
「さっきの? え?」

 白を切るつもりかと思ったが、どうやら本当に心当たりがないのかみょうじは困惑を浮かべている。怖がっていないのだとしたら、さっきからの態度はなんなんだ。困惑するみょうじと対峙する俺も眉間に皺が寄る。しばらくお互い神妙な面持ちで向かい合っていると、やがてみょうじは小さく吹き出した。

「なんか今日、変ですね」

 うふふと楽しそうに笑うみょうじが、どうやら怒ってもいなければ怖がっている様子もないことを悟りほっと胸を撫で下ろす。また来週も会ってくれそうだ。それだけで安堵してしまうくらいには惚れていて、会えなくなるかもしれない事態に怯えるくらいには失い難くて、許されるならこのまま帰したくないとも思っている。

 言葉とは裏腹に、未だ帰ろうとしないみょうじも同じ気持ちでいるのだろうか。それとも俺が都合よく解釈しているだけなのか。彼女の気持ちを量りきれずに、相変わらず俺は難しい顔をしているのだろう。彼女が不安そうな顔をして俺を見上げる。

「……帰りたくないですね」

 そしてぼそりと呟いた。幻聴かと思うくらいしんみりとした小さな声だったが、照れくさそうに俯く彼女の様子を見るにどうやら俺の幻聴ではないらしい。俺は視力だけではなくて聴力も凄まじくいいらしい、混雑した駅の中でもみょうじの声だけははっきりと聞き取れてしまう。なにを言われたのかすぐには理解できなくて、思わずみょうじをぼうっと見下ろす。

「……やっぱりなんでもないです」

 そしていつもの寂しそうな顔をして電光掲示板を見上げる。
 いつもならみょうじが電車に乗るのを見送るのだが、今日はなぜかやけに離れがたく思ってしまった。

「じゃあ、私そろそろ帰りますね」

 “また”が来るかもわからない、もう来ないかもしれない。一度その危機を覚えると人は、特に男という生き物は、本能的に好きな女を口説くようにできているのかもしれない。しかしそんな甲斐性は俺にはなくて、手を振り立ち去ろうとする彼女の手首を咄嗟に掴む。

「え?」

 いきなり手首を掴まれて驚く彼女は、俺を見上げて目をぱちくりとしている。しかし驚いているのは俺も同じで、一瞬吹っ飛んでしまった理性に自分で驚いたのち、掴んだ手首があまりに細くて怖くなる。すぐに手を放したが、彼女がどんな顔をしているのかみょうじの方を見れない。

 衝動的とはいえ、やっていいことと悪いことがある。

 相手は一般の女性で、自分は日々鍛える自衛官である。力の差など歴然で、今度こそみょうじを怖がらせてしまっただろう。ひとり自己嫌悪に苛まれていると、今度はみょうじの声がはっきりと聞こえてきた。

「……やっぱりなんでもなくないです、帰りたくないです」

 今度こそ幻聴かと思ったが、彼女はやっぱり俺の目をまっすぐ見上げていて、ピアスが揺れる耳も白い頬も赤く染まっていて、ツヤのある唇は僅かに震えていて、その言葉が現実であることを彼女の表情がなによりも物語っている。

 これは、つまり。

 細く息を吐いて意を決した。今度は衝動なんかではなく、確かな意思をもってしてみょうじの手を握る。細くて小さくて薄い手のひらはやわらかくて、繋いだ指先の感覚だけがやけに研ぎ澄まされている。戸惑う指先が俺の手を握り返したのを確認して、みょうじの手を握ったまま自宅最寄りまで行く路線の電車に乗り込んだ。
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