ハートマークが憎たらしい

 平日は足早く過ぎていき土曜の夕方、洗濯を終えた黒いマスクと丈夫な素材の迷彩服はベランダで風に揺れている。とっくに部屋の掃除も終え暇をもて余していると、スマホのメッセージ受信音が聞こえてきた。
 心臓がどきりと跳ねたのは無音の中で突然音が鳴ったからだと自分に言い聞かせながら、ソファに寝転んだ体勢のままローテーブルに置きっぱなしのスマホに手を伸ばす。待受画面を起動する前に深く息を吐いて、意を決して真っ暗な画面を起こす。
 しかし。

(……なにも受信してない)

 がっくりとしながら、ケージから放していたオウムに視線を向ける。いつの間にかテーブルの上にちょこんと鎮座していたオウムは、その間も楽しそうにスマホの受信音や着信音の物真似をしている。一週間前の自分なら微笑ましく思えていた彼の行動に溜め息を漏らす自分に気がついて、罪滅ぼしではないがオウムに手を伸ばす。
 目を閉じ黙って撫でられているオウムを左手に、右手でスマホを操作していく。別に誰に連絡を取るでもないのにメッセージアプリを開いて、最近追加された“みょうじなまえ”で指先が止まる。

「連絡先を教えてください」

 お願いします、と深々く頭を下げられ「嫌です」と断れるほど俺も冷酷にはなれなかった。というより断る理由がなかったし、ホッキョクグマ(仮)ことみょうじなまえに対してそこまで嫌な感情は持ち合わせていなかった。
 だから連絡先を教えたというのに。
 トーク画面を開いて文字の羅列を目で追った。

〈今日バーベキューでご一緒したみょうじなまえです。今日はお疲れ様でした。またお会いできたら嬉しいです〉

 素っ気ないが丁寧な文面は何度読み返しても好意的な印象を抱く。その文面に対して〈こちらこそよろしくお願いします〉と返信した俺の文も大概愛想がないことは会話がそれきりで終わっていることが証明している。既読マークから下はただただ余白だけが広がっていて、ビタ一文字たりとも浮かんでこない空色の画面をぼんやり眺めているとオウムが俺の指を甘噛みする。

 どう返信するのが正しかったんだろうか。考えあぐねても今さらなにを送れというのか。ていうかなんでこんなどうしようもないことで悩んでいるんだ俺は。そもそもこれは悩みなのか? 疑問ばかりが浮かんでは消え浮かんでは消え、遂にはみょうじなまえと出会ってから一週間が経とうとしている。

 たったの一週間前、先週の土曜日にはなかった悩みはいつの間にか俺の頭を埋め尽くし、ふわふわとした感覚で過ごした平日はあっという間に過ぎていった。
 それでもそのふわふわとした浮遊感はなぜか不快なものでもなく、よくわからない謎の活力になり日々のエネルギーに変わった。初めて経験する知らない感覚に戸惑い疲れているはずなのに、今日も無駄に早くから起きて家中ピカピカに掃除する始末。俺は一体どうしてしまったというのか。自分でもさっぱりわからない。

 指を噛み飽きたオウムが飛び回る羽の音を頭上に聞きながらメッセージアプリのタイムラインを開く。

 高校時代の野球部にいた扶桑はもっぱらタイムライン常駐と噂されており、今日も何気ない日常風景を投稿している。
 ネットに疎いはずの武蔵も、暑くなってきたのが嬉しいのかドヤ顔タンクトップのしょうもない写真を投稿して妙高や敷島にコメントで思いっきりバカにされている。それがつい笑えて俺もその投稿にいいねなんて押してみる。
 その武蔵の投稿をディスっていた妙高も、よくわからないメカの開発に成功したらしく写真を投稿している。そのコメント欄にはたぶん自衛官ではないだろう明らかに偽名の人たちからコメントが来ているので妙高の交遊関係の謎は深まるばかりだ。

 先週の日曜日に俺を山に連行した先輩は今週も飲んでいるらしい。俺も誘われたが乗り気にはなれなかったので今回こそは断った。一緒にいる女性陣は先週のメンバーとほぼほぼ変わりないらしいが、その中にどうやらみょうじなまえはいないらしい。
 それが安心するような、逆に不安を煽られるような、あの女が今なにをしているのか気になるような。よくわからない焦りが生じる。

 全てのタイムラインを読み終えたところで、焦る指先が勝手に下にスクロールして更新を試みる。
 知りたい情報はなんだってグーグルが教えてくれる画期的な機械でも、たったひとりの一般女性が今この瞬間になにをしているのかは教えてくれない。今まで感じたことのないほどの退屈さを実感してあくびを漏らした瞬間に、新しいタイムラインが浮上してきた。
 そしてその投稿はみょうじなまえのもので、俺の呼吸を一瞬止めるに値するものだった。

 フクロウカフェに行ってきたという旨の投稿には画像が何枚か添付されていて、そこに写るフクロウたちは皆、愛くるしい目でカメラを見て利口に鎮座している。小首を傾げていたり羽を広げていたり指の背で撫でられながらうっとり目を細めているやつもいる。
 なんだここは、地上にあるタイプの天国か。思わずみょうじなまえの投稿にいいねを押しフクロウの画像を何度も見る。あまりのかわいさにひとり静かに感動していると、今度こそ目の前のスマホから受信音が鳴る。
 送ってきたのはなんと“みょうじなまえ”だった。

〈お久しぶりです。お元気ですか〉

 たったそれだけの短い文ですら、どう返すのがよいのか考えあぐねてしまう。
 というか先週会ったばかりの女が言う久しぶりってなんだ、冷静に考えておかしくないか。とはいえみょうじなまえからの連絡を待っていたのは事実だし、たったの一週間とはいえ体感で言うなら一ヶ月あるいはそれ以上待たされたような感覚さえある。
 短い一文はそう何度も読み返す必要すらない内容だが、目に留まる度に妙な緊張感が肺を満たし圧迫する。細い息を吐いて覚悟を決めたものの、文字を打ち込む指先は鉛のように重かった。

〈お久しぶりです、元気です〉

 送信ボタンを押した途端に後悔が襲う。
 愛想がない、なさすぎる。これではこの前の二の舞で、今度は一週間どころか二度とみょうじなまえは返信してこないかもしれない。それがどうしたと言われればそれまでなのだが、みょうじなまえからの連絡が途絶えることを想像するとなぜか嫌な気持ちになる。
 そして慌てて追加の文を打ち込んで、すぐに送信。

〈フクロウかわいい〉

 しかしこれも送ったあとにすぐ後悔。さっきまでは愛想がなかったが今度は脈絡がなさすぎて気持ち悪いやつみたいになっていないだろうか。しかし送ったものは取り消せない、みょうじなまえはすぐに既読をつけてきた。

〈新しくできたところやっと行けました。すごくかわいかったですよ〉

 新しくできたところ、と言われても他のフクロウカフェすら行ったことのない自分には未知だ。
 この女はフクロウが好きなのか? フクロウカフェマイスターか? 途端に興味が沸いてきて、気持ち悪いやつに思われないような返信を考え込む。
 しかし先に送ってきたのはみょうじなまえだった。

〈フクロウお好きなんですか?〉

 俺が彼女に聞きたかったことと同じ質問をされ思わず面を食らう。同時になにか温かな気持ちになる。同士を見つけたような気がして、共通点を見つけた気がして勝手に照れ臭くなる。

〈フクロウというか動物は大体好きです〉
〈うちでオウムを飼っています〉

 ついでにオウムの画像でも送ろうかと思ったが、それはそれで必死さを感じるので辞めておく。しかしみょうじなまえの返信は意外なものだった。

〈オウム飼ってるんですか!? 見たいです〉

 お世辞かもしれないがみょうじなまえからの返信が素直に嬉しく思って、うちのオウムが一番盛れている画像を見繕う。

 毛並みがふんわりとして見える写真、目がきらきらしている写真、首を傾げている写真、悩んだ結果テーブルに戻ってきたオウムにスマホを向けた。
 一発でアイドル顔負けなカメラ目線をよこしたオウムの頭を撫で、すぐにみょうじなまえに送信すると〈かわいいですね〉とハートマークつきの返信が来る。そんな些細なことに頭を抱えた自分が情けなくてたまらないはずなのに別に嫌な気がしないのはなぜなのか。
 みょうじなまえとのやり取りは夜まで続き、ふわふわとした浮遊感の中で眠りについた土曜日だった。
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