さよならは言わない
お互い複雑な気持ちを抱えたまま週末を迎えた。なまえとはあの日以来連絡を取ってはいなかったが、金曜日の夜は今までの二ヶ月間そうしていたようにいつも通りに家にやって来た。
あの日、結局お互いどちらも「別れたい」とは言わなかった。“別れたい”なんて思っていないのだから言えないのは当然と言えば当然だが、先の見えない将来に不安がないと言えば嘘になる。なまえを解放してやるのが本来優しさなのかもしれないが、手放せないというのが本音である。会話がぎこちないまま夜を迎え、なんとなくお互い背を向けたままベッドに入る。
「ねえ、もう寝た?」
彼女が声を掛けてきたので「起きてるよ」というアピールのつもりで振り向いて彼女の手を握る。相変わらずなまえはこちらを見ていない。
「……明日デートするって約束覚えてる?」
なまえが楽しみにしていた“部屋着を買いに行く”という約束のことだろう。覚えてはいるが敢行するつもりなのか。なまえの本意が汲み取れずにもう一度手を握る。
「九時には家出るからね、ちゃんと起きてよ」
そこでようやくなまえは俺の方をちらりと振り向く。面食らっている俺に気がついたのか、彼女は続けた。
「なんか転勤前に揃えとくものとかあるでしょ、お世話になった人に渡すものとか」
なまえの買い物に行くはずだったデートは予定を変更して、俺の買い物のために敢行することとなった。なまえの提案は素直に助かるのだが、なぜか胸の中をモヤモヤとした感情が渦巻く。
なまえは、一週間も経たないうちにこの件について受け入れているのだろうか。仕方がない、と割りきることができているのだろうか。未だ割りきれずにいる情けない俺には理解が及ばない。
「(なまえはそれでいいの)」
「それでいいって?」
すっぴんの眠そうな目からこのときばかりははっきりとした意思を感じる。
なまえは割りきれているのかそれとも我慢をしているだけなのか。ひとつだけわかるのは彼女はまだ別れるつもりがないということで、今はそれさえわかっていればそれでいいような気がした。
「(なまえは、なんか行きたいとこない?)」
訊ねると、彼女はしばらく考え込んだのちに続ける。
「明日、樹と鍋やりたい」
それから俺となまえは引っ越しの日まで、二人でやりたいことをやり尽くした。彼女の希望通りに鍋もやったし一緒に見たいと思った映画は全部見た。紅葉も見に行ったが、山の方でもやはり葉はまだ色づいていなかった。
「思いきって誕生日パーティーとかクリスマスパーティーとかバレンタインとかやっちゃう?」
なまえの提案で季節外れに無駄に毎週なんらかのパーティーが行われ、なんだかんだしみったれた空気にならないまま遂に引っ越しの日はやって来てしまった。
俺の送別会というのを口実にただ飲みたいだけだろと思うくらい散々見送られたというのに、自衛隊の連中や武軍の連中は最後の日にも見送りに来た。別に今後も国内にはいるし、なんなら災害派遣や演習でまた一緒に仕事する可能性はあるというのにだ。ていうかいずれ埼玉に帰る気満々だぞ俺は。
「(本当に空気読まないなこいつら)」
「それだけ愛されてるってことでしょ」
うふふ、と嬉しそうに微笑むなまえを遠巻きに見て「あれが神鷹さんの彼女……」とひそひそ話されていることなどなまえはきっと知らないだろう。人の彼女を噂のネタにするなと言いたいところだが、なまえと出会う前の自分の振る舞いを考えると彼女を物珍しい生き物と認識されるのは誰でもなく俺のせいな気がしてならない。実際、俺にとっても彼女は一緒にいて気が休まる極めて数少ない人物なのだから。
「(じゃ、行ってくる)」
異動を言い渡されてから毎日は慌ただしく過ぎていった。ネガティブな感情が入り込む隙間もないくらい思い返せばなかなかに濃い一ヶ月間だったので、あちらに着いたら少しゆっくりさせてもらおう。
「待ってるね」
オウムのケージを抱いたなまえが手を振った。隊舎にオウムを連れていけないので、今ではすっかり懐いている彼女に帰るまでの預かり先を託すことにしたのだ。離れてからも繋がっていたいという願望でもあったが、それでもなまえは快く引き受けてくれた。
結局お互い今日まで「別れたい」とは言わなかったな、と新幹線の中でぼんやり考えていた。
お互い年頃で、言ってしまえば結婚適齢期で、周りからの「結婚はまだか、いい人はいないのか」という小言からさっさと逃れたいこの時期に、次にいつ会えるかもわからない人間との未来を考えてしまうのはなぜなのか。
ふと出会った日のことを思い出した。北極から連れてこられたホッキョクグマのような気持ちでいたあの日のことだ。あとから聞いたがあの日彼女は「アフリカから連れてこられたアフリカゾウの気持ち」になっていたそうだ。つまりあの日、俺と彼女は場違いな居たたまれなさをあの場で感じていて、そして偶然にも意気投合してしまった。こんなおもしろい話はきっと他にはないだろう。だから簡単には手放せない。
それにだ。
「付き合った日のこと覚えてる? プラネタリウム見た日のこと」
織姫と彦星の話に比べれば、まだ地球規模で、ましてや日本国内の話ならかわいいものだろう。会おうと思えばいつでも会えるわけではないが、会おうと思えば会えない距離ではないのだからまだましだ。
「よし、これを期に心置きなくお料理教室通お!」
そう言って意気込むなまえのたくましさを思い出し目を閉じた。楽しい記憶とこれから先の未来をまぶたの裏に見る。帰る場所があると思えば途端に安堵して眠くなる。幸福な夢の中にはちゃんと、笑う彼女の姿が見えた。
2019.10.28 fin.prev|next
back