嫌いになってと言えなくて

 九月上旬、この時期の上司からの個別の呼び出しは、大抵ろくな話じゃないというのはどこの企業でも同じではないだろうか。上官たちが集まる部屋を出て思わず溜め息が溢れる。

 俺はたったの今、上官から異動を言い渡されたばかりである。
 今後出世するにあたるには避けては通れない部隊への転属であり、その部隊への出世=将来を約束されたようなものである。

「お前にとっても悪い話じゃないだろう」

 そうだ、今後のことを考えるなら絶対に受けた方がいい異動だ。

 懸念があるとするなら遠くの地へ転勤なおかつ隊舎住まいを強いられることくらいで、激務であるためそうそう地元へも帰れない。しかし未来の出世を考えるなら、俺にとってこの話は利益しか生まない。
 それなのに今、俺は心の底から喜べずにいる。

 金曜の夜から俺の家に泊まっていたなまえとの、昨日の別れ際を思い出す。

「寒くなる前に長袖の部屋着持ってきてもいい? さすがに樹のじゃ袖長いし」

 夏になる前に出会い夏に付き合い始めたなまえとの月日を、いくらか過ごしやすくなった夕暮れが物語る。

「(来週一緒に買いに行く?)」
「それいい! じゃあ私が樹の部屋着選ぼうっと」

 絶対約束だからね! とルンルンと弾むなまえに何度も釘を刺されたのが微笑ましく思っていたのに。

 なまえは来週のデートを楽しみにしているだろう。異動は十月一日からの着任なので来週のデート自体には影響がない。とはいえ今なまえの部屋着を買ったとして、寒くなりなまえが部屋着に袖を通すのが先か異動が先か、知れたもんじゃない。

 着任期間も正直わからない。いつ帰ってこれるのかも全くわからない。盆と正月くらいはさすがに里帰りできるだろうが、でもそのときなまえが俺と会ってくれる保証はあるのか?
 他に好きな男ができるかもしれない。他に好きな男がいなかったとしても、なまえが俺を好きでいてくれる保証は? 考えると不安で仕方がなくなって、俺は真っ先になまえに連絡を取った。



 話したいことがあるから家に来てほしい、と送るとなまえはなにかを察したのか、いつものきらびやかな絵文字はどこにもなかった。

「昨日ぶり! もう会いたくなっちゃったの?」

 無理に笑っておどけるなまえには覚えがある。付き合い始めた日、気まずい空気の中無理に明るく振る舞っては延々と喋り続けた彼女は今、あの日と同じ顔をして隣で笑っている。
 きっとこのあと、俺が口を挟めないくらいに喋り倒すつもりでいるのだろう。彼女だって本当は、俺と同じように話し下手なくせに無理して笑うのだ。これが彼女なりの処世術で、きっと今までにもこうしてその場を切り抜けてきたに違いない。

「そういえば樹さそり座だよね? なんか今日いいことなかった? 朝の占いで一位だったよ。ちなみに私は十二位で、恋愛運最低だったけど今日は平日なのに樹に会えたから当たらなかったのかなあ」

 彼女のから笑いが虚しく響く。今日あったいいこと、きっとこの異動の話こそが、将来の俺にとって本当は最高の転機なんだろう。そうなんだろう。
 わかってはいるのだ、本当は、俺だって。

「ラッキーカラー金ってすごい難しくない? 金色の服なんて普通の社会人着れないし。みょうじさん今日どうしたの? ってなるよね、うちの職場アクセサリー禁止だし」
「(なまえ、聞いて)」

 話に割って入るとようやく彼女は黙る。たぶん俺は今、ものすごく困った顔をしているのだろう。不安そうに俺を見上げる彼女と真っ直ぐに向き合う。彼女が意を決したのを確認して、俺も覚悟を決めて続ける。

「(異動になった)」

 彼女が息を飲んだのがわかるくらい、部屋の中はしんと静まり返っている。空気を読んでいるのか、オウムさえも羽のひとつはためかさない。

「(遠くに行く。いつ帰れるかわからない)」
「……その話は、樹にとってはいい話なの?」

 頷いて、「ごめん」と伝えると彼女は大きく息を吐き俯いた。両手で頬を覆い、前髪から覗く目は憔悴している。

「……謝ることないよ、樹は全然悪くない」
「……。」
「悪いのは樹じゃなくてタイミングだよね」

 それって結局俺が謝るしかないのでは。そうは思ったが、ここでそれを言えば更に彼女を追い詰める気がした。
 誰のせいでもないことを彼女も理解している。そしてこの話が俺にとっても悪い話ではないのなら、尚更理解しなければならないと。
 しかし納得しているかと言えば話は別だ。なぜなら俺にとっていい話を持ち掛けられた俺でさえ、まだ納得が追い付いていないのだから。

「……その話、私と出会う前だったらよかったのに。そしたらつらくなかったのに」

 静かに紡ぐ彼女に、なにも言えなくなる。
 俺にとっていい話を持ち掛けてくれた上司には申し訳ないが、俺も彼女と同じことを思った。なんで今なんだと。せめて半年前だったなら、彼女と出会うこともなくなんのしがらみもない状態で迷わず行けた。あるいは半年後だったなら、お互いもう少し愛を深めていて「遠距離くらいどうってことない」と気にも留めなかったかもしれない。あるいは俺が彼女からとっくに振られていたかもしれないのに。

 女に現を抜かすなんて俺もずいぶんひよってしまったのかもしれない。でも俺にとってなまえは、出会って半年足らずだとしてもかけがえのない存在で、失いがたく思っている。

「(ごめん)」
「謝んないでよ」
「(ごめん)」
「謝んないでってば」
「(でも)」
「だから樹のせいじゃないって言ってるのに」

 ついには泣き崩れてしまった彼女の背中を両手であやしている最中、柄にもなく俺も泣きたくなる。
 誰も悪くない。悪いのはタイミングだけだ。それを受け入れられない彼女もそして俺も、この話を持ち掛けてきた上司も誰ひとりとして悪くない。
 だからこそこんなに苦しい。いっそ誰かのせいにできたら楽だった。「あいつ本当に最低だな」って、悪態のひとつでも吐けた方がいっそ健全で清々しい。それができないからこそ俺もなまえもつらいのだ、泣きたくなるのだ。

「……恋愛運、本当に最低だった」
「……。」
「恋愛運最低でも私には樹がいるし、って思ってたのに」
「……。」

 だから俺は彼女の、やり場のない恨み言を黙って聞く。彼女の背中を撫でながら。

「……昨日まで幸せだったのになあ」

 彼女の言葉が俺の肩口に消えていく。いっそ嫌いになってくれたら、嫌いになってもらえたらお互いに楽なんじゃないかと思ったが、そんなこと言えるはずもなくて彼女を抱きしめることしか俺にはできなかった。
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