誕生日に焼き肉行きたい。
そう言ったのは彼の方だった。だけど網の上で焼けていく肉の塊を、彼はどこか上の空で見ている。
「どうしたの?食欲ない?」
「いや?超お腹空いてる」
とてもそんな風には見えないけれど。いつもなら言い返す言葉をぐっと飲み込んだ。そんなことを言える雰囲気じゃないことくらいはわかるけれど、彼がなにを考えているのかはどうにもわからなかった。
入学式の日に行った焼肉屋は、彼の行きつけなのだという。誕生日もそこがいいとリクエストをしてきたのは彼の方だった。よっぽど気に入っている店なのだろうと、あまり深く考えたことはない。だけど彼はここに来たがるくせに、来るとなぜか浮かない顔をする。
矛盾している。それなのに深く踏み込めずにいた。折角のお祝いなのだから楽しむことだけを考えようと自分になんとか理由をつけて、私はすぐそばにある真相から目を逸らしている。
一緒に住むようになって、彼と過ごす時間は圧倒的に増えた。学部の違う彼と講義が被ることはなくても同じ大学へ通い、家に帰ればどちらかが先にいて、夜は同じベッドで眠る。彼にボーダーの任務がある日でも、決まって彼は実家ではなく私の部屋に帰ってきた。
だけど一緒にいればいるほど、彼の生活を知れば知るほど、なぜだか彼がわからなくなっていく。完璧に象られた笑顔や言葉の裏が読めないことに気がついてしまう。そして彼がこんな風になにかを考え込んでいるとき、自分は彼のなにを知った気でいたのかという事実を突き付けられた。その度に彼を遠くに感じて、そのまま置いていかれてしまうのではないかという不安が襲ってくる。
「ちょっと、焦げるよ」
彼の声で我に返る。顔を上げると、先程まで赤く艶を帯びていた肉たちは今にも焼け焦げてしまいそうなほど黒々としていた。
「ごめん、ボーッとしてた」
「もう、しっかりしてよ」
自分だって先程まで上の空だったくせに、今度はいつものように無邪気に笑う。数秒単位で移ろう彼のこういう変化が、もっと彼をわからなくしていくのだ。炭のように焦げた肉を退かして食べ頃に焼けた肉を私の皿に乗せると、彼はまたぼんやりと網の奥で揺れる火を見つめた。
「付き合ってもうちょっとで1年だね」
彼の静かな声に頷いて、思い返す。
あの子がいなくなった。行き場のないやるせなさを持て余して誰かにすがりたいと思ったとき、ちょうど同じような人間がそばにいた。そしてそのまま季節は一巡しようとしている。
こんな始まりは狂っているのだろうか。こんな関係は不健康なのだろうか。お互い惹かれ合ったのはお互いなんかじゃなくて、お互いの背後で鳴りを潜めているあの女の亡霊なのではないだろうか。実体はあるのにまるで掴めない彼と何気ない朝と夜を繰り返す度に、ふとそんな事実に押し潰されそうになる。
「去年の誕生日は最悪だったから、今年はなまえと過ごせてよかった」
彼はしみじみと呟いて、網の上のなすを箸で掴んで皿に放り込む。彼の瞳の中で炎は揺れている。僅かな灯火はゆらゆらと揺れて、そのまま消え去ってしまいそうだ。
「あいつがいなくなった日がね、俺の誕生日だったの」
とてもじゃないけれど笑える話じゃないのに、なんてことないように彼は微笑みを顔に貼り付けたまま言葉を紡いだ。その事実を聞くや否や、それまで頬張っていた肉がただの炭のように味気のないものに感じた。
彼女がいなくなったと知らされたのは、ゴールデンウィーク明けの朝のホームルームのことだった。訥々と話す担任の声は右の耳から左の耳へと抜けていき、嫌な汗が背中を伝っていった。血液がいつもの倍速で流れていくような、青天の霹靂とはまさにあのことだったのだと思う。どこかにあの子がいるような気がしてぼうっとしたまま学校を徘徊していたその日一日中、世界から全ての色彩が消え失せてしまった気がした。放課後に彼と出会うまでは。
詳しいことなど聞けなかったし知らなかった。聞く勇気がなかった。だって“いなくなった”という事実だけで、心はあっさり砕けてしまったのだから。
「18歳になって早々警察と一緒にいろんなとこ走り回ってさ、去年は散々だったよね」
どうして今、そんな話をするの。
そんな言葉が喉元まで出掛かっている。だけどうまく吐き出てはくれない。19年前、彼が生まれた今日という日を楽しい日にしてほしかったのに、どうして彼は楽しくない話を切り出したのか、全く理解できない。そして彼がもっとわからなくなるようなことを、彼は続けた。
「ここね、うちの隊長がなんかあったときよく連れてきてくれるんだよ。今年はさすがに彼女と過ごすって言っといたけど、たぶん明日もここ来るんだろうな俺」
それは彼女がいた頃からの、彼らが築いてきた習慣なのだろうか。その思い出の中には彼女がいて、そして今、私がここに来たことで私と彼女は間接的に彼の思い出の中でこの瞬間、繋がってしまった。それに気づくと途端に味気のない炭と化した肉を吐き出したくなってしまった。喉元で詰まったそれに呼吸が苦しくなる。吐きたい。慌てて口元を手で抑えると、彼は心底驚いていた。
「どうした、大丈夫!?」
困惑しつつも身を乗り出して、私の手元にあったグラスを彼は差し出した。
私にこれを飲み込めっていうのは、あまりに酷い話ではないのか。
頻りに首を横に振って拒むけれど、彼は相変わらず心配そうに私を見つめている。彼の純粋な瞳を見ていられなくて堪らず席を立って、お手洗いに駆け込んだ。
便器に顔を突っ込んで、炭もとい肉を吐き出した。喉で詰まっていたそれはあっさり吐き出せたけれど、体内を駆け巡るどす黒いなにかは晴れてはくれない。喉に指を突っ込んで嘔吐を促して胃袋を空にしても、それはいつまで経っても消えてはくれなかった。
「大丈夫?」
トイレを出てすぐの廊下で彼は待っていた。彼の顔を見た途端、思わず足が竦んでしまう。
「大丈夫、食べ過ぎたみたい」
彼は半信半疑な様子だったけれど、それ以上深くは聞いてこなかった。
「無理しないでよ」
無理に笑っているのは自分のくせに、私にそう忠告してハンカチを差し出した。私も無理に笑顔を貼り付けてそれを受け取る。席に戻ると炭は燃え尽きていて、彼はそれを寂しそうに見下ろしていた。
寂しい人は火遊びをしたがるという話を思い出した。そしてそれは本当なのだろう。だけど私は今この瞬間、この火がこの世で最も嫌悪するべきもののような気がしていた。
2016.03.25
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