どれだけあの日に捕らわれていても、時間というものは勝手に進んでいく。決して待ってはくれない。そうして私たちを、勝手に大人として仕立てあげていくのだ。

「なーんか実感沸かないんだよねえ」

 手持ち無沙汰に卒業証書の筒を弄びながら彼はしんみりと呟いた。その声は私たち二人だけしかいない教室内によく響く。

「ぎりぎり4月までは高校生だよ」
「って言うけどさ、“俺まだ高校生ですー”なんて堂々とは言えないでしょ」
「まあ確かに、自覚しろって言われそう」

 大人にしてくれなんて頼んでいないのに、時間というものは私たちに随分と無理を強いる。いつまでも子供でいられるとは思ってはいないけれど、それにしたって強引にも思う。

「てか卒アル見た?俺の超イケメンな写真」
「え?そんな写真あった?」
「俺いろんなとこに写り込んでるけど全部かっこいいよ」
「自分で言う」
「お前はなんかあれだね、もう少しがんばりましょう」
「私写真写り悪いからカメラ来る度全力で逃げてたけどな」
「だろうな〜。途中で取っ捕まって顔引きつってる写真ばっかだったし」

 この一冊には私たちの三年間の思い出がびっしりと詰まっている。

 正直に言うと、私はまだ卒業アルバムを開くことができずにいた。高校三年生という最後の青春である一年間を、一月足らずで終えた彼女がこの一冊のどこかにいる気がして怖かった。
 私の中で彼女という人物は、もはや輪郭だけを残した思い出の中の人だった。そんな人が確かに実在していて、温かな時間をくれた代わりに大きな傷を負わせて去っていった人。そんな記憶の中でぼやけ始めた輪郭だけの亡霊の顔を、いざ写真を通してはっきりと認識してしまったなら。塞き止めていたものが溢れ出して自分を保てなくなりそうで怖かった。

「あいつの写真はなかったよ」

 唐突に彼が呟いた言葉で、私は全て見透かされていることに気がついた。慌てて視線を彼へと移すと、彼はあの子の机に腰かけて、窓の外を見ている。
 失踪、とは言っても正式に彼女は退学したわけではない。今でも在籍していることにはなっていて、休学として扱われている。

「あの子って卒業したことになるのかな」
「無理でしょ。出席日数足りなすぎだし、任務のためっていってももうボーダーはクビになってるし」

 もう誰もあいつのこと守ってくれる人はいないんだよ。そう呟いた彼の声は、少しだけ大人にも感じて、だけど諦めているようにも聞こえた。

 あの子がもしも帰ってきたとき、もう一度彼女は高校三年生をやり直すのだろうか。それとも諦めて、中途退学を受け入れるのだろうか。あの日から一歩も進めていないのは、本当は私たちじゃなくて彼女なんじゃないだろうか。それとも学校とか、世間体とか、そんな常識のしがらみから解放されてしまった彼女はあの日からどれだけ先に進んでしまったのだろうか。それこそもう、私が追い付けないくらいに。
 彼の視線の先、青い空の向こう側。その先にいるかもしれない彼女に想いを馳せた。

「澄晴さ、あの子のこと死んだって言ったじゃん」
「って思い込まないとやってらんない願望な」
「もし生きてたとして、次に会ったらさ」

 あの日の彼女のままでいてほしいって、そう思うのは私だけなんだろうか。
 さすがにそれは聞けなかった。

 時間が誰も待ってくれないことを私は身をもって理解している。それは彼だって同じだろう。あの日のままでいてほしい、なんて、それこそ子供じみた独りよがりな願望でしかない。そして私たちを置いていった彼女がもしあの日のまま全く変わっていなかったとしたら。なんのために彼女が門を抜けていったのか、わけがわからなくなる。だから彼女が進まないことは絶対に許されないのだ。
 だけど、それでも私は、あの頃のままへらへらと笑う曖昧な彼女のままでいてほしいと思う。人を想うあまり自我さえ圧し殺してしまうような、それでも笑っていられる優しい人のままでいてほしいと、そう思ってしまうのだ。

「次に会ったら、か」

 言葉に詰まるも、聞きたいことをなんとなく彼は汲んだのだろう。彼はまっすぐと空を見つめながら、なにかを考え込んでいた。
 あいつは死んだ。彼がそう決めつけた日から、私たちは空を見る時間が随分と少なくなった気がする。進まなければいけないのだと、そうやって彼女を忘れたふりをして何気ない時間を享受し続けた。だけど今日くらい、彼女のことを想ったっていいだろう。本当なら、何事もなかったなら、ここにいて共に卒業していたはずの今日くらい、許してくれたっていいだろう。

「中卒女、ってバカにしてやろうかな」
「辛辣だね」
「それくらいしかあいつのことバカにできないからな」

 よく晴れた空を見つめて彼は悲しそうに笑った。彼が見つめるずうっと先に彼女がいてほしいと思った。それが叶わなくとも、そうであってほしいと思った。

 今日この学校を卒業すれば、私は必然的に彼女の思い出から解放されてしまうだろう。この学校には彼女との思い出が詰まりすぎている。だけどボーダー隊員としての彼女との思い出は、これからも彼につきまとうだろう。私が知らない二人の思い出がきっと彼と彼女にはある。彼はその思い出に縛られながら、それでも笑っているのかもしれない。卒業して大人になっても縛られながら、それでも笑っているのかもしれない。

2016.03.07
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