彼と初めて言葉を交わした日を思い出してみた。

 その日私の隣には彼女がいて、彼女を呼ぶ澄晴の声が沈んだ記憶の底から浮かんでくる。それは親しさから来る雑さをもって、とても温かい響きだった。

「初めまして」

 やけに愛想のよい男だと思った。それはもう、気味が悪いくらい。僅かに表情を引きつらせた私を見て、あの日の彼は大袈裟なほど落胆してみせた。

「人見知りな感じ?大丈夫だって俺怪しくないよ」
「怪しくない人はわざわざ自分のこと怪しくないって言わない」
「じゃあどう言えば信じるの?」

 そのときの彼女は私の隣で、私と澄晴のやりとりを肝を冷やしながら見ていたのを覚えている。悪いやつじゃないよって彼女が言ったから、私は彼を信じたのだ。



 5月の空は重たくて、しっとりと雨をもたらせた。春はとても不安定だ。早く夏になりたいくせに、まだ少しだけ冬を引きずっている。

「空って繋がってるっていうよね」

 こんな雨の日に傘を差してまでわざわざ屋上へと出る私たちはきっとどこまでも異常なのだと思った。今さらまともになんて戻れるはずもない。私たちが出会った頃にはもうどうしたって戻れるわけがない。隣にも、もうどこにもあの子はいないのだから。

「それってどこまでなんだろうね」

 薄く笑って呟いた澄晴の声は、今にも雨音に掻き消されてしまいそう。鉛色の空を見上げる彼の頭上で、透明のビニール傘目掛けて雨は落ちていた。

「地球の下なら全部じゃないの」
「じゃあ違う惑星だったらもう無理なのかな、届かないのかな」

 抽象的だったけれど彼の言葉で思い当たる節があった。

 私は一度だけ彼女に聞いたことがある。「近界民はどこから来るの?」と。突如として宙に現れる不思議な門を潜って毎日のようにやって来ては、無惨にやっつけられてしまう大きな生き物たちはどうやってここに来るのか少しだけ気になったのだ。

「門が発生して、そこから」
「じゃあその門はどこに繋がってるの?」

 彼女は困ったように笑いながら言葉を選んだ。いつだって辿々しいのに彼女の言葉は、何故かひどく私を安心させたものだ。

「近界民の住む世界は惑星みたいなの」
「じゃあ近界民は宇宙から来るの?」
「そんな感じ。ごめん、ボーダーの機密事項だからあんまり詳しく話せない」

 そしてそのとき彼女が「いつかあたしも行ってみたいんだよね」とへらりと笑っていたこと。それがそのとき、全て繋がったような気がした。

 彼女はこの空の向こう、宇宙の果てのどこかの星に行ってしまったのだと。

 私はなにも知らなかった。あのとき冗談を言うみたいにへらりと笑った彼女が、実際行動に移してしまうくらい本気だったことすらも。

 地面に降っていく雨粒たちを屋上から見下ろした。雨粒のひとつひとつなんてろくに見えやしないけれど、叩きつけられて、真っ黒な染みを広げて、やがて水溜まりを作っていくそれらを見ているとどうしてだか私まで泣きたい気持ちになってきた。そして気づいたのは、そういえば私も彼もあの日から一度だって泣いたことがないこと。
 もしも私たちの代わりに泣いている雨が永遠に降り続けたなら、この世は全て海に繋がってしまうのかもしれない。それもいいと思った。全て無に還ってしまったなら、もしあの子が帰ってきたとき少しだけ私や澄晴を思い出して後悔して泣いてくれるかもしれないって、そう思ってしまった。そして、この期に及んでこんな恨みがましい考えが浮かんでしまう私みたいな人間はいなくなったほうがましだとすら思ってしまった。
 フェンスから身を乗り出して、地面目掛けて降っていく雨を見ていた。落下して、叩きつけられると知りながら、アスファルトで跳ねて、波紋を広げていく。泣き止まない重たい空が、あの子の居場所を教えてくれているような気がした。

「こらこら、どこ行くの」

 背後から二の腕を掴む彼はきっと、笑ってなんかいやしない。棘を隠した声に、あの子の名前を呼んだやわらかさは微塵も含まれていない。
 だけどそれは私だってきっと同じだ。二人でいるのに私たちはあの子を思い出している。彼女がいるかもわからない空に焦がれ、あまつさえ私は自滅に思いを馳せた。
 こんな関係、だなんて憂いはしない。それはきっと彼も同じだろう。私たちは彼女の思い出に縛られた者同士、お互いの中に未だ影を見せるあの子によって繋がっている。そんな素振りすら必死に隠しながら私たちは、こうして繋がっていることでしか強がれない。その日の雨は止まなかった。

2016.02.08
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