ある日突然、知っている人がいなくなってしまったら。

 そんな妄想をしては怯えていた自分にバチが当たったのだと思う。その幻想は現実となり、私の心を一瞬にして引き裂いた。引き裂かれた心は真っ二つに割れて、彼女を憎む自分と、彼女を想って大声で泣き叫びたい自分の狭間で揺れ動く。そして心がその中間地点にいる間だけ、私は平穏でいられる。それが“彼女を忘れている自分”のときだ。



 こんな真夜中に目が冴えた。気だるい夜の空気はゆっくりと私を包んで、どうしようもないくらい不安な気持ちにさせる。夜は闇だ。私に似てる。全て飲み込んで、だけど絶望とか枯渇とかそういう気持ちだけは飲み込んでくれなくて、吐き出して、ぶつけてくる。絶望は私の肩を抱き締めて離してはくれない。だから私は夜が嫌なんだ。眠りたいのに眠らせてはくれない。眠ってさえいれば、いくら絶望が私を見つめていても私は目を閉じて意識を手放しているから知らずにいられる。
 隣で寝息を立てる彼に目線を落とす。あどけない寝顔を見ていると少しずつ気持ちは落ち着いてきた。それはもう、不思議なくらい。彼の頬に手を添える。大丈夫、彼はちゃんと、あったかい、生きている。それだけで無性に安心して、泣き出したくなる。
 こんな夜が彼にもあるのだろうかとふと思った。例えば私が、昔のことを忘れて夢の中でくだらないことに一生懸命になっている間のことを彼は話す。「なんかいい夢見てたの?」と口元に笑みを携えながら。目が覚めるなり彼は色んなことを話して聞かせてくるから起きたら大体の夢は忘れてしまうけれど、彼が笑ってそう言うのでそんな日はきっといい夢を見ているのだろう。
 反対に、目が覚めると彼の両腕にしっかりと抱きすくめられている朝がある。そんな日の彼は目が覚めてもなにも言わずに抱きしめ続けて、大きな手のひらで髪を撫でてくれる。それはとても幸福な画のはずなのに、途方もない夜の闇を引きずっている朝のように感じるから、きっとその夜私は魘されて、泣いていたのかもしれない。渇いた涙の痕を目尻に感じながら、私は彼の腕の中でぎゅっと目を瞑る。朝が早く迎えに来るように願いながら。
 夜中に目が覚めて、こうしてお互いの寝顔を確かめ合って、朝になれば生きていることを確かめ合う。そうすれば私も彼も安心していられる。お互いの存在を確かめ合わないと私たち、きっとなにを信じたらよいのかすらもわかってない。

 私を見つめ続ける絶望を睨み付ける。絶望と夜は私の中で等しい。だから夜の代名詞である星も月も、あんなに明るくきらめいていたって私には禍々しいものにしか見えないのだ。だけど昔から好奇心の強い子供だった私は怖いもの見たさで、もっとよく見てやろうと布団から這い出てベランダに出る。突っ掛けサンダルには夜霧が降って、しっとりと湿っていた。こんな風に夜は泣いて、冷えて、朝には嘘みたいに渇いている。だけどいつか泣き止まない夜が朝をも飲み込んでしまう気がして私はそれだけが怖い。
 明けない夜はないと言うけれど。それは今の今まで夜が明けないことがなかっただけに過ぎない。なにかの気まぐれで夜が朝を追いやって、もう一生明けなくなってしまうことがないなんてどうして言えるだろうか。

 だって彼女がいなくなったときだって、そんな風に突然のことだった。

 夜を支配しているのは闇だ。闇は手招きながら私にあの子を思い出させる。ぞわぞわと肌が粟立って、当たり前にしていたはずの呼吸の間隔が短くなって、真っ黒な酸素で肺を満たしていく。胸がざわつく。もうここにいてはだめだ。一人でいてはだめだ。絶望に捕まってしまう。慌ててサンダルを脱ぎ捨てて部屋へ戻ると、フローリングにへたれ込むように腰を下ろした彼がいた。私を見つけるなり力なく微笑む口元。

「いなくなったかと思った」

 へらり、彼女によく似た嘘っぱちの笑顔で彼は笑う。上手に笑う彼にしては珍しくて、ああ大丈夫だどんなに余裕がなくなったって私も彼もちゃんと夜の中で生きているんだって、それだけで安心してしまった。

「大丈夫だよ」

 私はあの子みたいに、いきなりいなくなったりなんかしない。だから約束してほしい。

 澄晴まであの子みたいに、いきなり私の前からいなくなったりしないでほしい。

 ある日突然、知っている人がいなくなってしまうことに私たちは二人、怯えている。私はなによりも、“突然”のことが怖い。突然通り魔に心臓を刺されて死んでしまうくらいなら、喉の奥に刺さった魚の骨に身を侵食されて何年間ももがきながら死ぬことを私は選ぶだろう。

2016.01.14
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