突然誰かがいなくなることに怯えた二人は、静かな終わりを迎えようとしている。
進学を期に転がり込んできた男の荷物は少しずつ、少しずつ彼の実家へと運び込まれた。残るものは鞄に詰め込めるくらい必要最低限の生活用品、ふたつ並んでいた歯ブラシが洗面台から消えたとき、私たちの関係は終わりを告げた。
別れを決めてから彼の荷物がなくなるまで、その間たったの一週間。私はこの部屋で一人というものを経験したことがない。棚に飾られていた飛行機の模型やクローゼットを圧迫していた彼の服がなくなっただけで私の部屋はがらりと広くなったような気がする。
「私の部屋ってこんな広かったんだ」
ぽつりと呟いた声に彼は反応する。つられて部屋をぐるりと見渡して、感嘆の声を漏らした。
「清々する?」
「ちょっとだけ」
「そこは否定しろよ」
笑い声が静かな部屋によく響く。いやに乾いた声だった。
「まあ寂しくなったらさ、いつでも遊びに来てあげるよ。また人参だらけのカレー食べたいし」
「なに言ってんの、寂しいのはそっちのくせに」
「それは否定しないかな」
あの子がいなくなってから二人で過ごした1年と数ヵ月、二人で暮らした半年間、当たり前になっていた日常は、こんなにも優しく終わってしまうのだ。過ごした時間の長さをしみじみと実感していると、彼がゆっくりと話し出した。いつものようにやわらかい声のトーンだった。
「初めて会ったときさあ、この子一人で生きていけそうで可愛げないなって思った」
それはまだあの子がこの世界にいた頃、私たちが自分を見失う前のことだ。あのときはまさか彼とこうして生きていくことになるなんて、想像すらしていなかった。
「でもあいつがいなくなったとき、そんなことなかったって実感してさ」
へらへら笑って死んでいきそうだと思ったあの子がいなくなったって、私はなんだかんだ一人で生きていけるとあの頃は思っていた。あの子がいなくなることを、いつも心の底で怯えていたくせにだ。
「でもそばにいるのは俺じゃだめだったんだな」
目を伏せて、彼は静かに笑った。
笑顔の似合う男だった。もっと明るく、太陽のように笑う彼は窓際で空に焦がれたいつかの夏の日のなすなんかじゃない。彼が好きな、空を自由に飛び回る飛行機のように、太陽にもっともっと近い存在のはずなのだ。
「傷つけてごめんな」
あの子がいなくなったとき、私のそばにいてくれたのは彼しかいなかった。それなのに彼は、そんなことを言う。
「初めて会ったとき私は胡散臭い人って思ったよ」
「うわー辛辣」
「でもあの子がいなくなったとき、そんなことなかったって気づいたの」
あの子がいなくなったとき、彼の笑顔に隠された不安定さに気がついてしまった。守りたいと思ったわけじゃない。かといって恋をしたわけでもない。平静を保てなくなるくらい心が大きく揺れ動いたあの日、私たちはお互いが隠そうとしていた同じ傷跡を見つけてしまった。お互いの本質に気づいてしまった。
「でも澄晴は私に本音言わなくなった」
いつしか彼は私の前で無理に笑うようになった。当たり障りのないことばかり言うようになった。彼を押さえつけていたのは自分だった。それでも彼を手放せなかったのは、彼のそばにいたがったのは私の方だ。
「しがみついててごめんね」
「なに言ってんの?お前のそばにいなきゃなって勝手に思ったの俺だよ?」
「その言葉そのまま返していい?」
結果それが相手を押さえつけることになろうとも、もし今の結果があの日見えていたとしても、私は彼を放っておけなかったのだと思う。彼に聞いたって、きっと私と同じことを言うだろう。守ろうとしてくれていたことは知っていた。だけど彼の作った囲いの中で、私はいつも高く積み上げられた秘密ばかりを見上げていた。真実を知りたかった。彼のためにも一人で生きていかなくちゃいけないことも、本当はずっと前からわかっていた。
「俺がいなくても生きていけるの?」
笑みを浮かべながら問いかける声にすぐには頷けなかった。だけど一人で生きていかなくちゃいけない。数秒置いたあと無言で頷くと「心配だなあ」と彼は声を上げて笑った。
私の前で時折見せた弱々しい笑顔を、彼は外では見せたことがないのだろう。二宮さんと話したとき、なんとなくそう思った。なんともないふりをして笑っていたんじゃない、私がいつまでも過去に囚われていたから私といると彼女を思い出してしまっていただけに過ぎない。きっと彼は一人でだって生きていける。彼の芯の強さは私が一番近くで見てきた。どこへでも行ってしまいそうな柔軟さは言い換えればどこにだって行ける、なににも変えられない彼自身が持ちうる強さだ。
「私も強くならなきゃ」
「成長したねえ」
私の頭を撫でる手のひらは、私に初めて男を教えた。そして心の隙間を埋めようとしてくれた。だけど彼に優しくされる度に、埋めようのない空白に押し潰されそうになっていった。満足げに目を細めて私を見る彼は、しばらく間を空けたあと一人言みたいに呟いた。
「俺もお前も、あいつのこと忘れたらもっと楽になれると思うんだよ」
私も彼も亡霊に取り憑かれている。いくらお互いを想い合っていても、亡霊に蝕まれたぼろ雑巾のようにみすぼらしくくたびれた精神の上に、健康な愛が成り立つわけがない。
「俺がいるとあいつのこと忘れられないだろ」
あの子がいたから私たちは繋がって、あの子がいなくなったから、その隙間を埋めるためにそばに居続けた。却ってお互いを傷つけてしまうことなんか、あの日の私たちには考える余裕すらもなかった。
「お前なら大丈夫だよ。でももし生きていけなくなったらまた俺を頼ればいい」
「なにそれ、お父さんみたい」
「言うねえ?元カレなんだけど」
楽しそうに笑う彼を見て、なんだか初めて出会った頃のようだと思った。隣で冷や汗をかきながら私たちを見守る彼女はいないけれど、私は私の人生を生きていきたい。あの子がいなくても真っ直ぐ歩いていけるって、ちゃんと証明したい。
「私たぶんだけど、ちゃんと澄晴のこと好きだったと思う」
「たぶんってなんだよ」
「澄晴は?ほんとに私のこと好きだった?」
「えー、どうかな」
「なにそれ、人のこと言えないじゃん」
「仕返しってやつ?」
心の底からあどけなく笑う彼を私は久しぶりに見た気がした。本当は彼もずっと解放されたがっていたのかもしれない。彼女がいなくなった事実はどうしたってこれから先もついて回ってくる。今さらなかったことにはできない。彼女がいた時間は私にとっても彼にとっても、そんな取るに足らないものだったわけじゃない。だからこそその悲しみをもう一人分背負うのは、とてもじゃないけれど重すぎる。それこそ一歩も動けなくなるくらいに。
「前にも言ったろ、ちゃんと好きだったよって」
同じこと言わせんな、と優しく彼は目を細めた。
ある日突然、知っている人がいなくなってしまっても、前を見据えて歩いている人の存在を知った。彼女を忘れたわけじゃない。だけど誰かに寄りかかっていてもどこにも進めない。ここで二人、止まっていたって過去にも未来にも行けないのだ。終わることは始まることだ。またここから歩き出していけたらいい。やけに広くなった部屋で一人、高校の卒業アルバムを初めて開いた。あの子は写真のどこにもいなかった。代わりに至るところに写り込んでいた、屈託なく笑う彼の写真を指でなぞる。この笑顔を奪ったのは自分なのだと、罪を刻み付けていく。
なにか離れざるを得ない決定的な出来事が起こったわけじゃない。嫌い合ったわけでもない。だけどもう彼を縛ることには耐えられなかった。あれだけ解放されたがっていたのに、解放したがっていたのに、こうして一人になってみると彼と過ごした時間の重みがのしかかってきた。とても優しい重さだ。押し潰さんばかりの重さは尊さをもってして私をゆっくりと崩していく。不思議な感覚だった。月明かりが部屋に差す、夜の闇はひとりぼっちになった私をただただ静かに見据えている。
私はやっぱりダメなやつなんだ。
そんな弱音が頭に浮かぶ。泣き出してしまいそうになる自分をなんとか律して、夜空にぽっかりと浮かぶ月を睨み返した。一人で生きていくと決めたのだ、もし今泣き崩れてしまったら、きっと闇に魂を売ってあっさりと飲み込まれてしまう。絶対に泣くもんか。今に見ていればいい、もう守られるだけの女にはならない。彼女のいない卒業アルバムを抱きしめて、確かな覚悟を胸に刻み付けた。
2016.04.28
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